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よくわかる同人誌 [日記・雑感]

11月21日、今朝は4.9℃だったらしい。
寒くてちょっと朝寝をしてしまったうえ、朝食後もPCにへばりついていた。
発行されて昨日受領した同人誌『山波193号』の第1陣分の発送。


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手渡ししたりして読んでもらっている友人や知人らでも、同人誌とはどういうものなのか意外に知られていないことがある。
「山波」の同人が高齢化で減少してしまい、せっかく名古屋市文芸創造団体助成金事業の認定も受けているので廃刊にするのは惜しいと思って、事務局に協力して寄稿者を募っている。
前192号で、花田吾一さんが奇しくも同人誌活動についてのエッセイを寄稿してくれたうえ、中日新聞(東京新聞の親会社といってもいいと思っている)の文芸欄で、評論家の竹中忍氏から高い評価を受けているので紹介しておきたい。



13年間の同人誌活動 花田吾一

 「同人誌」と言っても、この『山波』のことではない。『山波』の同人であり、名西高校の同窓生(半世紀も前の話)だった越智大二さんから「何か書いてみないか」と言われたのだが、このところ怠惰な生活をおくっている身としては、とくに書くことも書きたいこともない。だったら、過去の出来事で何かないか。どんな平々凡々とした人間でも、古稀を過ぎて何もないということはないはずだ。と、考えていて思い出したのが「同人誌」。名西時代に友人たちと始めた同人誌のことを書いてみようかと思った次第。『山波』同人の方々にも「そうそう」と思っていただけるところもあるのではと思う。

 「事件」は、今から50年以上も昔、名古屋の名門?名西(名古屋西)高校で起こった。
 2年生の2学期が始まり、そろそろ受験勉強を始めなければならない時期である。にもかかわらず4人の男たちの話はそんな受験勉強とは全く無関係の議論であった。突然、「同人誌」を出そうという提案がされたのだった。私、花田と神崎、清水という同級生の4人は、それまでも授業中に教師の目を盗んではノートに下手な小説を書き、そのノートを仲間内で回し読みするという「遊び」をしていたのだが、ノートに書いているだけではつまらん、
 「同人誌、出そまい」と、言い出したのは、当時としても珍しい坊主頭の神崎だった。その理由は、
 「ノートも三冊になったし、その中からおもしろいものだけを厳選すれば、読者に十分楽しんでもらえる雑誌ができるのではないか」
 という、とてつもないものだった。
 ノーテンキという言葉があるが、本当にノーテンキな人物が実在することを、私は、このとき初めて知った。どちらかというと人見知りの私にとっては、雑誌を作って第三者にも見せるなどという話はまさに恥の上塗り、いや青天の霹靂、驚天動地。そんな無謀そのものと言える同人誌なんぞ出された日には一生の恥さらしだ。発行を阻止するために、私は、断固として言った。
 「そんなこと言ったって、印刷なんかどうするんだ。金なんてあれせんし」
 今のようなパソコンで簡単に誌面を作れる時代とちがうので、最も安い謄写版印刷ですら学校の謄写版を借りるわけにはいかず、印刷屋に頼めばそれなりの金がかかったのである。アルバイトを禁止されている高校生にそんな金はない。まさしく正論である。神崎と森田は、それはそうだなあ、という顔をした。ところが、
「謄写版なら、俺、持っとるがや」
 という人物がいたのだから世の中、恐ろしい。
 その恐ろしい人物こそ、後に作家になった清水義範だった。いつか同人誌のようなものを作りたいと思い、小遣いを貯めて謄写版、ガリ版、鉄筆など一式を揃えていたというのだから、これはオタク、マニアなどというありきたりの言葉ではとても説明できることではない。私が相手をしているのは、もはや真っ当な人間ではないのだ。
 謄写版があるということで話はトントン拍子に進んでしまい、同人誌製作費用は紙(わら半紙)代を用意するだけということになった。もう時効なので書いてしまうが、当時、空の牛乳瓶を購買部に持って行くと1本5円で引きとってくれた。私たちは授業後の教室をこっそり見回って手に入れた大量の空き瓶を購買部に持って行き、同人誌の費用を捻出したのだった。後に法学部に進んだ私に言わせてもらえば、これはもう立派な窃盗罪、要するに「犯罪」だ。
 というようなどたばたはあったものの、4人の頭文字(含・ペンネーム)からつけられた『MKSZマガジン』なる文字通り手作りの同人誌が1964年10月に発行されたのだった。B5判40ページ。あれほど同人誌の発行に異議を唱えていたにもかかわらず、私自身、しっかりSF短編を書いてしまい(内容は黙秘)、おまけにガリ切り(謄写印刷には原紙をガリ版という細かいやすりのような金属板に載せ鉄筆で文字を書く必要がある)が清水1人では大変だろうとガリ版まで買ってしまったのである。
 こう書いていると、情けないことに私自身、自分というものがわからなくなってくる。次号の資金にと厚かましくも20円で同級生たちに売りつけ、完売。気をよくした4人は、翌年2月に予告通り第2号を発行したのだった(『山波』の読者のために、高校1年のとき同級で、このときは隣のクラスだった越智大二さんも「客分」として参加していたことを付け加えておこう)。

 しかし、受験勉強をしなければならない重要な時期にこんなことをやっていていいわけがない。たとえ親兄弟親戚が許しても遠山桜が許さないのは誰しもが知るところである。当然のように天罰が下り、4人のうち2人は合格できたものの私と清水はあえなく撃沈。さすがに予備校通いの日陰者として日々勉学に勤しむこととなった。いや、そのはずだった。浪人生とは、そうしなければいけない日陰の人間なのだ。ところが、同じ予備校に通うことになった清水が、またとんでもない提案をしてきたのである。
 「このまま一年同人誌のブランクができてまうとせっかく獲得した読者が逃げてまうと思うんだ。何か一冊出しといたほうがええんでねゃあか」
 全く、呆れ果ててものも言えない提案である。親が聞いたら気絶してしまうかもしれない。ところが、そんな提案を、
「受験までには一年もあるし、やるか」
 と、受け入れてしまった私も私だ。机に向かって一生懸命小説を書いている私の後ろ姿を見て、よしよしちゃんと勉強しとるな、と思っていただろう親には本当に困った息子だったと、今になって深く深く反省する次第である。まことに済みませんでした。
 同人誌は、気分一新というわけでもないがせっかくなのでタイトルも変更しようということになり、『スーパー・ノバ』に決まった。第1号はA5判52ページ、売価30円で5月に発行された。さあ、これで受験勉強に突入するぞというところである。ところが、清水の常軌を逸した提案はこれだけでは終わらなかった。暑くなってきた7月、清水が再び恐ろしいことを言ってきたのだ。
 「もう一冊出そまいか」
 「!?」
 おもわず絶句するというのは、こういうことを言うのである。良識ある私としては、言葉も出ない。浪人生として、いくら何でもあり得ない提案ではないか。
 「いくらなんでも、それはあかんだろう」
 私がきっぱりと断ったのは、常識ある行動であり、ある意味当然と言える。浪人生としては、そんなことをしている暇があるのなら、英単語の一つでも覚えるべきである。さすがにこれ以上両親を裏切ることはできない。
 ところが、
 「な、一冊、もう一冊だけ・・・」
 必死の形相でそう頼まれると、つい、
 「本当だな。ホントにもう一冊だけだぞ」
 あえて書いておくが、一冊とか二冊とかいう問題ではないのだ。にもかかわらず、基本的には、勉強したくない、という現実逃避が働いていたとしても、非常識な行動を承知してしまった私も情けない。
 結果、『スーパー・ノバ』第2号は9月に発行された。必死に勉強しならなければならない夏休みの時期に、私は、同人誌向けの小説を書き、ガリ版で原紙を切り、おまけに表紙の絵まで描いてしまったのである。はっきり言って、バカである。いや、別にはっきり言わなくても、間違いなくバカだ。非のうちどころのないバカだ。今この文章を書いていても、こんなことしていてよく大学に合格できたものだと冷や汗ものである。悪運が強かったというか、奇跡と言ってよい。しかし、その過程に何があったにしても、受かってしまえば天下晴れての大学生である。浪人時代のように後ろ指刺されることも自己の良心に恥じることもなく、堂々と同人誌活動ができるのである。その意味でも、大学時代の四年間は同人誌活動が最も順調にいっていた時代だと思う。

 『スーパー・ノバ』は順調に発行され、結局12号まで続いた。さらにその後、謄写印刷からタイプ印刷に変更されて誌名も『飛行船』と変え、彼らが大学を卒業するまでに7冊が発行された。
 タイプ印刷に変更されたのには、もちろん理由がある。
 『スーパー・ノバ』は、別に純文学の同人誌ではなくSFの同人誌でもミステリの同人誌でもない。高校時代の友人たちが遊びで始めた何でも好き勝手に書いている同人誌だった。ただ、4人ともSFが好きだったため毎号必ずSFの短編が載っていたということはある。冷静に考えたらそれは無理だ不可能だとわかってしまうことでも、可能に思えてしまうのが学生時代というものである。だったら「SF特集号」を作って東京で行われるSF大会に乗り込み、売って大儲けしようという話になるのに時間はかからなかった。いかにも、世間知らずの若者たちが考えそうなことではないか。ところが、『スーパー・ノバ』を何十冊も持って東京の大会に出て驚いた。星新一らを輩出した老舗の「宇宙塵」や「宇宙気流」をはじめ、筒井康隆が主催する大阪の「NULL(ヌル)」、名古屋の「ミュータンツ」など名だたる同人誌はいずれもタイプ印刷だったのだ。謄写印刷の『スーパー・ノバ』とは、内容以前に、見た目に格段の差があるのだ。机の隅っこを借りて積み上げてみたものの、無名の同人誌に関心を示してくれる者はほとんどいなかった。惨敗である。
 帰名してすぐに会議が始まった。今ならパソコンで簡単に作れる同人誌も和文タイプの会社に出して印刷してもらうとなると、それなりに費用がかかる。しかし、4人は何よりも「見栄」を重んじる生粋の名古屋人である。内容よりも、まず見た目だ。そのことに誰も異論はない。結婚式には菓子をばらまくのと同様、同人誌はタイプ印刷で出すのだ。足りない分はバイトで補おうぜ、と後先考えずにタイプ印刷に突き進んだのである。
 結局、『スーパー・ノバ』『飛行船』合わせて大学時代の4年間で17冊の同人誌が発行された。季刊以上のペースであり、内容はともかく今の『山波』よりはるかにいいペースである。などと書くと、自慢に聞こえるかもしれないが、自慢である。

 そんな同人誌活動も同人たちの卒業で転機を迎えることになる。
 就職した会社、就労場所が大きく名古屋と東京とに分かれることになってしまったのだ。さてどうするか、ということになるのだが、不思議なことに止めようという意見は一つも出なかった。今にして思うと、大学を卒業して社会の歯車に組み込まれてしまい、平凡な社会人になってしまうのが怖かったのかもしれない。それにしても、慣れない仕事をこなしながら一文の得にもならない同人誌を続けようというのだから、20代前半はまだ馬力のある年齢だったのだろう。社会人になってからの同人誌は、『漠』と誌名を変えて1977年12月の第8号まで発行された。年4回の発行ということでスタートしたものの、さすがに年刊雑誌になってしまった。『山波』に完敗で残念だが続けただけでも意味があったのではないかと思う。
 余談だが(というか、まあ、この雑文すべてが余談のようなものなのだが)、神崎は同人誌が出るたびに勤めている会社の気に入っている女性に、
 「俺、こういうことやっとるんだわ。読んだってちょーせ」
 と手渡しており、それが縁で結婚する運びになったことも記しておきたい。私も清水も森田も、同人誌のそういう使い道があったのか、と地団駄踏んだのだが、もちろん後の祭りであった。
 結局、私の同人誌活動は、10代後半から20代の13年間。出した雑誌は計29冊で終わった。
 これを多いと見るか少ないと見るかは各人で異なるだろう。今にして思うと、どうせなら「切り」のいい30冊まで出すべきだったかなとう気がしないでもない。ただ、いずれにしても、これだけ続けられたのは、やはり「おもしろかった」のだ。それも、他の遊びと比べても、超絶におもしろかったのだ。おもしろかったから、続けられた。古稀を超えた老人としては、今、人生を振り返り「この13年間が自分の青春だった」のだと、あらためて思うのである。

 清水義範が『国語入試問題必勝法』という作品で、この後、大沢在昌、宮部みゆき、池井戸潤らを輩出することになる吉川英治文学新人賞を授賞したのは、それからさらに10年後のことだった。
 授賞式のある帝国ホテルには私も神崎も清水に招待され、式後のパーティーでは寿司やステーキ、メロン、各種ドリンク類など堪能した。その帰り道、神崎が突然つぶやくように言った。
 「花田、」
 「何だ?」
 「同人誌、やってきてよかったなぁ」
 同じことを考えていたんだと、私は思った。かなり親しい友人だったとしても、高校や大学を卒業したらそれっきりというケースは多い。それが、大学がちがっても勤め先がちがってもずっと付き合いが続いてきたのは、まちがいなく同人誌のおかげなのだ。同人誌活動には、そうした意味もあったのだ、と。しかし、高校時代「同人誌、出そまい」などというとてつもない変化球を投げてきた神崎の考えは少しちがうようだった。何十年ぶりかの神崎の大変化球に、私は思わずコケるところだった。
「あんなにうまい寿司やステーキがタダで食べられたんだもんなぁ」
 おいおい、そっちかい!


そういえば、受験勉強(ほとんどしていない)中、参考書に『よくわかる数Ⅰ』などと、よくわかるシリーズがあったような記憶がよみがえった。




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コメント 14

多摩IH

nice!
受験生時代に同人誌を出し続けていたのにも驚きましたが、就職してからも続けていたのには更に驚きました。
皆さん、凄い!
この同人誌の名前どこかで聞いた記憶、観たような記憶があります。
by 多摩IH (2019-11-22 00:57) 

KS

またまた懐かしく読みました。本当にようやっていたものだと思います。これ、手で打ち込んだのですか?
by KS (2019-11-22 06:15) 

アニマルボイス

(^_-)-☆
by アニマルボイス (2019-11-22 09:06) 

Boss365

こんにちは。
花田吾一さんのエッセイ、当時の状況・心情が伝わり興味深いです。
「生粋の名古屋人」印象に残りました(笑)
文学や同人誌に無縁な小生、若い頃友人から頂いた同人誌は読まずに山積み状態でした。好きな事をやる事の大切さ、現在に繋がっている事を感じさせるエッセイですね!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2019-11-22 12:42) 

makkun

wildboarさん
今朝の我が街の7度の気温にへこたれてる私ですが
4.9度じゃ温かい布団から出る気がしませんね~(笑)
趣味の写真を始める前までは文学青年を自負し
文字を書くのが好きだったんですがオカシナ人生を
歩んでるもんです(*∩ω∩*)
私はCoCoタンをお風呂に入れてシャンプーするのが
楽しみだったんですが奥方がドライヤ―するのを
面倒がって美容院でしかシャンプ―させなくなったんです(~~
by makkun (2019-11-22 14:34) 

這い上がるママ

清水義範さんの『国語入試問題必勝法』面白いですね。模倣小説という分野でしょうか。うちに文庫本が何冊かあります。
by 這い上がるママ (2019-11-22 15:00) 

wildboar

多摩IH様
私は隣の組なのに、彼らの中へ入り込んだ高校時代の楽しい仲間たちでした。
by wildboar (2019-11-22 15:09) 

wildboar

KS様
「山波」は書き手募集中ですから、いつでも待っていますよ。
by wildboar (2019-11-22 15:11) 

wildboar

アニマルボイス様
(^_-)-☆、(^_-)-☆。
by wildboar (2019-11-22 15:12) 

wildboar

Boss365様
まさに青春時代をうまく切り取り、名古屋人の特色を出している楽しい文章だと思います。
私は、このようにさらっと書けないので、今もなお勉強中です。

by wildboar (2019-11-22 15:18) 

wildboar

makuun様
今日の関東地区はかなり低温のようですねぇ。
文学青年であったムードは感じています。
ドライヤーが大変なことは、分かりますねー。
月1、美容院のCoCo姫さんは幸せですよっ。
by wildboar (2019-11-22 15:24) 

wildboar

清水義範は、名古屋では特に有名人です。
私は、サイン入りですよぉ。
by wildboar (2019-11-22 15:28) 

みずき

今、同人誌っていうとコミケってイメージが
ありますけど、昔の文豪たちも作ってたんですよね。
今朝の寒さに負けない熱い情熱があってこそって
ところでしょうか^^
by みずき (2019-11-22 23:55) 

wildboar

みずき様
学生の頃は、ほとんど遊び。
今はボランティア気分といったところですが、締め切り前は必死です。
by wildboar (2019-11-23 15:24) 

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