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元気が出る? 「がん闘病記」その② [日記・雑感]

4月25日、珍しく早朝の畑作業をする気にならず、今日も外出自粛モード。
小庭の空きスペースを探して春ダイコンを播いてやった。収穫までに至るだろうか?
畑にではなく庭にダイコンの種を播く爺さん、俳句にならないかなぁ、川柳かな。

福ちゃんは家人さんと至福の時間を過ごす。
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自粛をしていると私にもこんなご褒美が、クロアゲハかと思うのだが。
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正面から撮ろうと外へ出たら「ステイホーム!」と、逃げられた。

さて、昨日の続きである花田吾一さんの「がん闘病記」、えっー、そんなことがあるのぉ、と驚きの2985字。

★抗がん剤治療
 病院に戻って聞かされた検査結果はやはり悪性のがんで「悪性粘液性組織球腫」というもの。何万人に一人という希少がんだった。ただしここまではすでに覚悟していたわけで、PET検査の結果、転移はないということで少し安心する。まずは切開跡の雑菌を殺す必要があるということで、抗生剤の点滴が始められた。チューブにつながれているのはめんどうだが、点滴をしたらそれまでの変な臭いがたちどころに消えたのには驚いた。後生いや抗生剤恐るべし。
 そして、いよいよがん治療開始となった。
 まず抗がん剤治療を3クールやり、腫瘍が小さくなったところで手術。さらにその後、念のため再度抗がん剤をもう1回やるという治療方針全体の説明を受ける。
私「抗がん剤は効きますか?」
医師「やってみないとわかりません」
私「・・・・・」
 治療は、まず前日の夜から「流し」と称する電解液の点滴から始まる。これは、吐き気などの副作用をできるだけ抑えるためのものだ。翌日の午前中にさらに吐き気止めの薬を点滴で入れ、午後からいよいよ抗がん剤による治療が始まった。二種類の抗がん剤(アドリアマイシン=A、イフォマイド=I)を6時間かかって入れるのが二日、一種類の抗がん剤を4時間で入れるのが三日の計五日間。電解液は抗がん剤前日の「流し」から抗がん剤が終わった翌日までずーっと継続。要するに1週間点滴で繋がれっぱなし。入って来るものがあれば出るものも増えるわけで、夜はほぼ2時間おきくらいにトイレに行くことになった。この時の尿の量は数値がナースセンターに送られており、尿の量が予想より少ないと翌日さっそく利尿剤の点滴が追加される。
一日目 夕方より流し(抗がん剤を排出するための電解液の点滴)
二日目 抗がん剤二種類(A+I)6時間
三日目 抗がん剤二種類(A+I)6時間
四日目 抗がん剤一種類(I)4時間
五日目 抗がん剤一種類(I)4時間
六日目 抗がん剤一種類(I)4時間
七日目 流し終日(翌日朝まで)
前後に吐き気止めとか利尿剤などの追加注入があったりするため、この1週間は、だいたい午前11時に抗がん剤が始まって午後6時に終わるようなスケジュールの繰り返しとなる。私の場合、吐き気は初日の夜から感じられ始め以後治療期間中は全く物が食べられなかった。ひどいときには、水をちょっと飲んだだけで、うぐっとくるのだから辛い。初回のときは吐き気がおさまらないので最後の「流し」を1日延長してもらった。
しかし、ホッとするのはまだ早く、抗がん剤を終わって数日すると熱が出た。それも半端なものではなく、全身に震えがくるのだ。体温を測ってみたらなんと39.8℃。怖くなってその後は計らなかったがまちがいなく40℃を越えていたと思う。さらに白血球の減少。減少がひどいと白血球を増やす注射を射つのだがこれがまたとてつもなく痛い。そして副作用に代表のような脱毛ももちろんあるのだが、上の二つの副作用と比べたら屁のようなものだ。ただ、人間、眉毛がなくなると怖い顔になる。鏡に写る自分の顔がとても堅気には見えない。なるほど、それで映画で見るやくざが眉毛を剃っているのかと、変なところで納得した。
治療中、看護士が、
「きついですか」
 と訊くので、
「キツイねえ」
 と答える。
「そうですよね、抗がん剤の強さは、一に血液(競泳の池江さんなどの血液がん)、二に整形と言われていますから」
 と明るく言われてしまった。
主治医が来たときに、抗がん剤はどうやってがん細胞を認識するのかを訊いてみた。
がんは活発に細胞分裂をして増殖していくので、抗がん剤はそういう部分を狙い射つのだという。そのため血液を作る骨髄や毛髪、爪など体内で比較的細胞分裂の活発な部分はがん細胞と認識されて抗がん剤に攻撃されてしまうのだろうと理解。がんになったおかげ?で、ひとつ勉強になった。
さて、抗がん剤終了後1週間ほど血球値など副作用の治療をすると一旦退院となる(退院なので荷物も持って帰宅)。自宅で体力の回復に努めるわけだ。が、1週間~10日ほどすると電話がかかってきて再入院(書き忘れたが、国立がんセンターでは最初に「がんセンター」と名乗っていいのかどうかを訊かれる。がんは世間的にはまだまだ不治の病と思われているので家族にはまだ隠しておきたいという人もいるはずで、これもよく考えられた配慮だと思う。私の場合は家族、親戚、知人すべてにがんのことを話してあるのでOKしたが、そうでない場合はどう名乗るのだろう?)。
再入院後は、また同じ抗がん剤治療を受ける。私の場合、年内に予定通り3クール行った。自宅ではできるだけ体力の回復をはかるという繰り返しだが、ともかく食欲はずーっとないのであまり食べられない。体重はおもしろいように減っていく。結果、3回の抗がん剤治療で10㎏以上のダイエットに「成功」した。などと自慢している場合ではないのだ。
ともかく、抗がん剤が効くことを信じ、副作用の辛さに耐えてがんばるしかない。そう覚悟を決めていた時、大事件が勃発した!

★親子そろっての入院
ちょうど抗がん剤が終わって一時帰宅している時だった。
 子どもが、「右手が痛い」と言う。ゲームのやり過ぎだろうと思ったが、痛いというのを放っておくわけにもいかないので、妻が近くの医者に連れていった。私は次の抗がん剤治療に備えて自宅にいたが、まだ全身が怠く微熱もあるので、ソファに寝転んで少しうとうとしていた。ところに、電話が鳴った。びっくりして起き上がり受話器をとると、聞こえる妻の声がうわずっていた。
 触診した医者がちょっと変なのでとレントゲンを撮ったところ、右手親指に繋がる骨がほとんどなくなっている、というのだ。骨腫瘍の可能性も考えられる。いったい何がどうなっているんだ?わけがわからなくなって一瞬、頭の中が真っ白になった。それでも現実に戻れば、そう言えば、秋から時々右手が痛いと言っていたことをすぐに思い出した。その時、医者に連れて行っていれば・・・と後悔したが、今さらどうすることもできない。私の入院のことで私も妻も手一杯だったのだ。では、ではどうすればいいのだ? 気ばかり焦るが、私自身ががん患者である今は何もできない。
 そう思った瞬間、閃いた。
 そうだ、こんなとき相談できる医者がいるじゃないか!
 すぐ、がんセンターの主治医に電話をかけた。いつもは忙しくて待たされる主治医に奇跡的にすぐに繋がった。事情を話すと、できるだけ早く検診日を決めて知らせると言ってくれた。
「先生が、診てくれますか?」
「もちろん、私が担当します」
 子どもの診断は、数日後、私が再度の抗がん剤治療のため入院した翌日と決まった。私の初診のときと比べてずいぶん早いのは、主治医のおかげだと思う。感謝。診断があった日の夕方、抗がん剤で怠く、うとうとしていた私の所に主治医がやって来た。
「花田さん」
「・・・?」
「お子さんの腫瘍、多分、悪いものじゃないですよ」
 その瞬間、不安とストレスがスーッと消えていくのがはっきりとわかった。数日後、子どもの腫瘍は「巨細胞腫」というものであることがわかった。抗がん剤は必要なく、腰のあたりの「必要ない」骨を採り形状を整えて親指根元に繋がる骨を再建するのだそうだ。悪性腫瘍ではないにしても、けっこうな大手術だ。結局、年明けに親子揃ってがんセンターに入院することになった。
                               (明日に続きます)


これは、昨日菜園から撮ったハナミズキ
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手前は調整池なのだが、そろそろウシガエルが鳴き始めるのではないかと思う。


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