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守山そぞろ歩き(11)番外編 [だるま広報]

8月16日、連日の暑さがボディーブローのように効いているのか今朝は7時でも起きられなくて、9時過ぎの水やりになりました。昨年から私の斜め横の区画で野菜作りを始めた(私より)高齢のOさんに久しぶりに会ったので、手術なしで脊柱管狭窄症を克服した治療法を訊ねてみて納得、教えてもらった整形外科へ明日にでも家人さんを連れて行こうと思っています。


だるまさんの歴史好みには頭が下がります。この暑い中、柴田勝家を辿ったのは「そぞろ歩き」どころか強い意気込みすら感じます。高校時代の1500m走では確か、学年3位に入ったのはダテではなかったようです。
文中の名古屋市名東区上社は、当地へ転居する前に私が住んでいたところなので、この歴史の地を知らなかったことに恥じるような気持ちになります。
そういえば柴田名が多かった記憶はあります。


      守山そぞろ歩き(11)番外編
          勝家残照
                     東谷山六兵衛

 名東区下社(しもやしろ)(陸前町)に明徳(みょうとく)寺という寺があります。上社JCTから南に約2キロ、坂を登り切った高台にあり、更に石段を数10段登りきると山門に辿り着きます。山門の左手前に「柴田勝家出生地」(名古屋市教育委員会)との説明板があり、「瓶割り柴田」のエピソードも標されています。右手前には「下社城址」の石柱が建てられており、この近くの家の表札に柴田家が多いのは勝家の縁者の末裔か。
 柴田勝家については信長配下の武将として手柄を立て、越前に北庄城を築城し城主として領民に対して治世を行ったと郷土史には記されています。猪突猛進の猛将というイメージが強いのですが、ルイス・フロイスという宣教師たちを保護しキリスト教布教を認めたり、関所を廃止し、年貢を軽減したりと行政手腕も優れていたようです。
 尾張下社城時代の若き日の勝家は幼名を権六といい信長の父、信秀に仕えていました。
 信秀死後、末森城(現在城山八幡宮辺り)にいた次男の信行に仕え、弘治二年(1556)清州城にいた信長を討つため稲生原(西区名塚辺り)で信長と戦うが敗北を喫してしまう。西区の庄内用水の畔には稲生の戦で亡くなった四百余の霊を弔うための庚申塚が祀られている。信行は末森城に逃げ帰り、信長嫌いの生母土田(どだ)御前の口添えで一度は許されるがその際、信長の器量に惚れた勝家は信長の家臣になってしまう。信行は性懲りもなく、再度の謀反を企て信長を殺そうとするが勝家の通報で逆に殺されてしまう。この辺りの話は先日放映されたNHKドラマ『麒麟がくる』に詳しい。
 さらに北庄時代の戦乱に明け暮れる勝家を支える武将たちは御器所(昭和区)に城を持つ佐久間盛政、同じく御器所出身で勝家の養子になった柴田勝政、東春日井郡稲葉村(尾張旭市)出身の毛受(めんじょう)家照(尾張旭市文化会館前に銅像が建つ)などが勝家の手足となって活躍しますが賤ケ岳の戦で勝家を守り、身代わりとなって討ち死にしてしまいます。
 賤ケ岳の戦いについて書いておかねばなりません。この戦は信長の死後の織田家の後継者争いです。清須会議で話し合いによって後継者が決まったかに見えたのですがやはり武力による決着しかなかったのでしょう。
 当初織田家の重臣たち(前田利家、不破勝光、金森長道)は勝家側につき、勝家を守る形で前方に陣を張ります。しかし戦闘が始まると動きません。秀吉と話が付いていたのでしょうか。総崩れになった勝家軍は多くの戦死者を出し、勝家は北庄城に逃げ帰ります。
 その時ここで死ぬといった勝家を諫め、勝家の御幣(馬印)を自らの馬に掲げ、敵を引き付けてその間に勝家を逃したのが前述毛受家照兄弟です。佐久間盛政は捕らえられ柴田勝政と毛受兄弟は戦死しました。
 それに引き換え前田利家はよく言えば機を見るに敏、悪く言えば日和見主義者です。秀吉死後も家康側に寝返りました。
 加賀百万石の殿様は世渡りが上手です。
 話は前後しますが勝家の戦歴(信長公記による)については信長初期の桶狭間の戦い、美濃の斎藤龍興攻略戦などには名前が記されておらず参戦していない。まだ信長に信頼されていなかったのだろうか。華々しい活躍を始めたのは浅井長政が信長から離反した時に起こった六角親子の勝家の居城長光寺攻めの頃からでしよう。
 この城攻めには前述明徳寺山門の案内板にあった「瓶割り柴田」のエピソードがあります。兵の目の前で籠城するに必要な水の入った大きな三個の瓶を槍で叩き割りました。
 もう水はない、決死の覚悟で城外に打って出よという檄を兵たちに飛ばしました。
 作戦が成功した柴田軍は大勝しましたがこの作戦は勝ったからいいようなものの退路を断って戦うという精神論のような気がします。
 その後、勝家は姉川の戦い、石山本願寺に呼応した長島一向一揆の鎮圧、比叡山焼き討ち、反旗を翻した足利義昭との戦い、朝倉義景を攻めた一乗谷の戦い、浅井長政を攻めた小谷城の戦い、など戦国時代とはいえ残虐な戦い方は、情け無用の最強の武将といわれたそうです。それも勝家のもう一つの姿なのでしょう。敵を徹底的に叩くという信長の戦い方の実行部隊だったようです。
 小谷城攻めでは皮肉にも最期の時を同じくする信長の妹、お市の方と浅井長政三人の娘茶々、初、江を救い出します。
 この頃から(もっと前から?)勝家はお市の方に恋心を抱いていたのでしょうか。
 本能寺の変の後の織田家の再興を描いた三谷幸喜監督『清須会議』では勝家(役所広司)、お市の方(鈴木京香)、秀吉(大泉洋)が絡み合い、勝家、秀吉共にお市の方をものにしようとする姿がコミカルに描かれています。
 何といっても光秀を討った秀吉の力は増していきます。しかしお市の方は氏素性が卑しく、野心家の秀吉を嫌っています。無骨だが織田家再興を一番に考える勝家は秀吉案(信長の嫡孫三歳の三法師を世継ぎとし、自らが後見になる事)を受け入れる代わりにお市の方と再婚し、三人の娘も北庄城に引き取ります。何という人の良さでしよう。やはり勝家に天下取りは無理でした。賤ケ岳の戦で敗れ、三人の娘を秀吉に委ね、勝家はお市と共に自害してしまいます。
 狡猾な秀吉は長女茶々を側室にして淀君と呼ばせ、最愛の息子秀頼をもうけます。しかし秀吉の死後、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させてしまいます。お市の方と勝家、浅井長政の因縁噺じみた結末に思えてなりません。
勝家がお市の方と一緒に死ねたのはせめてもの慰めでしょうか。やはり勝家は人のいい、愚直な武将だったのでしょう。
 柴田勝家の墓は福井市の菩提寺西光寺にあり、お市の方と共に静かに眠っています。

 コロナ禍の猛暑の夏、名東区、西区をマスク姿で取材。暑かったあ……!
 
庚申塚
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明徳寺石段
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稲生原
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下社城址
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今日の名古屋は38.2度、明日は何時に起きられるのでしょうか?
先日、売り場の綺麗なお姉さんの一声で1000円を追加投資した宝くじ、100円が当たりましたー。
だるまさんの文中にもある、光秀が映っています。
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