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続江戸ぶらり散歩 [だるま広報]

8月23日、昨日の雷雨で少し涼しくなったような気持ち。

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オジギソウが這うように小庭から飛び出してくるので、切って花入れに挿している。


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先日、だるまさんが同人誌「山波185号」(2017年8月10日発行)に綴った「続江戸ぶらり散歩」の生データを送ってくれた。
私か幽霊は苦手であることを以前伝えてあったのに、幽霊のことから始まる。あまりにも暑い日が続いたので涼しく過ごすようにとの配慮だったのかもしれない。落語を絡めた上手な文章。
6600字にも及ぶものなので分割してアップしようと思う。


      続江戸ぶらり散歩①
                東谷山六兵衛

 朝だというのにとにかく暑い。先日、東京は低気圧が梅雨前線を刺激し、ゲリラ豪雨に見舞われて大粒の雹(ひょう)が降ったそうだ。そして梅雨明け宣言、本格的な夏が来る。
前回「江戸ぶらり散歩」は桜の季節。花もあり、酒もあり、隅田の川風も心地よかった。
   
   谷中D坂から三崎(さんさき)坂へ
 今、地下鉄千駄木駅の出口に立っている。信号を渡ると谷中団子坂である。この坂は大正13年、江戸川乱歩の初期の探偵小説「D坂の殺人」の舞台になったところだといわれている。むろんD坂は団子坂の頭文字である。 
この作品で初登場する明智小五郎は以後名探偵となって乱歩の作品の主人公として活躍する。
 このD坂の通りにある古本屋で発生した密室殺人の第一発見者となったこの本の語り手である「私」が明智小五郎と事件を解決していくというストーリーである。
 まだ推理小説ではなく、探偵小説と呼ばれていた。乱歩自身がこの辺りで古本屋を営んでおり、この辺りの事情には明るかったようである。
 「私」と明智小五郎が知り合って、お茶を飲む「白梅軒」という喫茶店は、当時を想いおこさせるような佇まいを残し「乱歩」という名前で営業している。店の横には「D坂より308歩 散歩の後は乱歩のコーヒー」と年季の入った看板が掲げられている。生憎、準備中で中へは入れなかったが、ガラス越しに覗くとモジャモジャ頭で棒縞の浴衣を着た明智小五郎が冷やしコーヒーを飲みながら顎に手をあて、物思いに耽っている姿を見たような錯覚にとらわれた。
 密室殺人事件の結末については興味のある方は「D坂の殺人」を読んで頂くことをお薦めする。
 さて団子坂を少し上ると旧町名「下町まちしるべ谷中三崎(さんさき)町」と書いた案内板が建っている。
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「三崎」とは駒込、田端、谷中の三つの高台に向かっていることから名付けられた、と説明してある。この街を東西に上っている坂が三崎坂である。この三崎坂は三遊亭圓朝作の怪談噺「怪談牡丹灯籠」で死んだ筈のお露さんがお付き女中のお米を従え、牡丹灯籠を手に持ち「カラン コロン」と駒下駄の音を響かせて歩いた(?)坂である。恋い焦がれている萩原新三郎の棲む根津の清水谷を毎夜訪れてくるお露を新三郎も憎からず思っている。
 ある日、新三郎はお露の住まいがあるという谷中三崎を訪ねるがなかなか見つからない。通りがかった新幡随院の墓地の中に墨の後も真新しい卒塔婆と牡丹灯籠を見つける。寺の者にお露の墓だと聞いた新三郎は幽霊に憑付かれている事を知る。新三郎は怖くなり、新幡随院のの良石和尚に救いを求めると、死霊退散の御札を家の四方八方に貼り付け、死霊除の金無垢の如来像の守りを身に着けろ、と教えられる。御札を張り、如来像を身に着けてしばらくはお露の幽霊も門前払いだったが、隣家に住む伴蔵とその女房のおみねは御札と如来像を剝がしてくれたら百両上げます、と幽霊と取引してしまう。
 これが落語で有名な「牡丹灯籠お札はがし」である。いつの時代にも強欲な人間はいるもので伴蔵夫婦は御札をはがし、金の如来像と百両をもって生まれ故郷の栗橋宿に逃げてしまう。
 翌朝、新三郎は髑髏に抱き着かれた無残な死体として発見される。栗橋宿で百両を元手に小間物屋を始めて大儲けした伴蔵は酌取り女に惚れて、女房おみねを惨殺してしまう。お峰の亡霊はやがて伴蔵に取り付き悪事を重ねた伴蔵は捕えられてお仕置になってしまう。
 因果応報、悪因悪果、三遊亭圓朝の世界である。

   大円寺と谷中全生庵
 さて牡丹灯籠の話を書いたが少しも涼しくならない。
 先ほどの「下町まちしるべ」の案内板に書いてあった大円寺に立ち寄ろう。道の左手にある門を入ると本殿の手前に江戸時代の錦絵の開祖といわれる鈴木春信と笠森おせんの碑が寄り添うように建っている。
 笠森おせんは笠森稲荷前の茶屋「鍵屋」の看板娘で鈴木春信の錦絵によって江戸三美人の一人に数えられたという。この碑に永井荷風が撰文を書いている。
「女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、…錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影とどめて、嬌名今に高し…ここに阿仙の碑を建つ。大正己未夏 六月鰹のうまい頃」(台東区教育委員会)悔しいがまたも永井荷風である。文語調の粋な撰文はしなやかで艶っぽいおせんの姿思い浮かべさせる。この「江戸ぶらり散歩」で薄幸な女の碑文を書いている荷風によく出会った。薄幸な女を描く荷風にはやはり江戸がよく似合う。
 大円寺の門を出て少し歩くと全生庵という臨済宗の寺がある。落語ファンにとっては是非一度はお参りしたい寺である。近代落語の祖といわれる三遊亭圓朝が眠っている寺である。
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全生庵

 圓朝は『真景累ケ淵』や『怪談牡丹灯籠』『文七元結』など古典落語を創作し、演じた。寺では圓朝を悼んで、圓朝忌といわれる八月十一日に法要の後、落語が奉納される。そして八月中は圓朝まつりとして圓朝コレクションの幽霊画が一般公開される。今年は少し早かったが三年前に来た時には丸山応挙などの筆による幽霊画が多数並べてあり、そのおどろおどろしさに思わず背筋が凍りついたものである。
 圓朝忌には少し早いが圓朝の墓に参ることにしよう。
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 圓朝の墓はこの墓地の真ん中辺りにあり、墓前には花と果物が供えられていた。寺の話によると花と線香が絶えることはないそうである。私も汗を拭き帽子を取って手を合わせた。圓朝の墓のすぐ近くには勝海舟と共に江戸を官軍の総攻撃から救った幕臣山岡鉄舟の有蓋角塔の墓がある。山岡鉄舟が明治維新に国事に奔走して死んでいった人々を弔うために全生庵を建立したという。
 鉄舟と圓朝との出会いは禅を通じてであったらしい。
 鉄舟は圓朝に舌を使わずに語れ、などと禅問答を仕掛け禅の道へ導いていった。のちに京都天竜寺の禅師より『無舌居士』の号を授かっている。
 そしてこの寺に『春よ来い』『叱られて』などの作曲家弘田龍太郎の墓と曲碑があるのを知った。龍太郎夫妻の墓の傍らに『叱られて』の譜面が浮き彫りにされた曲碑が建てられている。そして新しく造成された墓地に「好樂無荒良士休休 詩経国風」と刻まれたピカピカの墓石がある。詩経とは中国最古の詩集で孔子の編だと広辞苑に記されている。この意味は理解できなかった。ゆっくり調べてみたいと思う。誰が建立したのか興味深い。


明日は、谷中霊園さくら並木通りを歩くからアップする。
江戸地図 (002).jpg

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だるまさんの地図中にある茅場町に東京勤務時代5年間も東西線で通勤していたのだが、こういう位置関係にあることを知らなかった。
それほどまでに仕事に熱中していたのかなあ(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾

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そうそう、小さく狙ったサマージャンボミニ、またしても300円が当たったので報告しておこう。

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