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いよいよ茶道も [だるま広報]

10月12日、だるまさんから届いたメールと写真、多趣味のだるまさんはいよいよ茶道も極めようと見受けられる。
まだ独身だった頃、母に抹茶を教えてもらったのだが、かなり泡立てていたような記憶がある。
裏千家だったのかな。

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台風一過日本晴れの昼下がり、陶芸の先輩であるYさんを訪ねた。

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Yさんはコロナ禍で窯を休んでおり2カ月ぶりの対面である。
奥方が茶道表千家の宗匠であり、自宅には本格的な茶室がある。

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以前は弟子も沢山おり、週一回ほど教えていたらしいが、ここもコロナ禍で今は休んでいるそうである。

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応接間に通され暫し談笑、そして雨戸を開けて茶室に案内された。
御数寄屋つくりの四畳半、床の間があり「庵青」(旧字体)の掛け軸が掛かっている。
身体を屈めて茶道口から入ると、手前畳、炉畳、客畳と襖で仕切ってある。

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タイミングよく11日放送のNHKドラマ『麒麟がくる』で堺の豪商今井宗久が茶室で御茶を点てながら光秀と密談するシーンがあった。
昔は茶室が密談する場所に使われたそうである。
略式ながら宗匠にお茶を点ててもらった。

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抹茶茶碗は厚かましくも10年程前に作った自前の黄瀬戸夏茶碗である。

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そこで興味深い話を聞かせてもらった。
茶を点てるとき茶筅をゆっくり回すのが表千家、気忙しく回すのは裏千家だそうである。
(裏千家は泡立たせるそうである)
茶席への招待は和紙に墨で書いた書状を送り、また返事も墨で書いて返すのが礼儀である。
正式な茶会だとまず茶懐石料理に2時間、それが終わってから客を控えの間へ案内して
茶室を取りかたずけ、更に2時間ほどかけて茶を回すそうである。
その間もちろん正座、膝にネズミがおり、せっかちなだるまにはとても耐えられない、
柱に銅鑼と撥が掛けてあったので「何に使うのですか」と聞くと、食事の後控えの間で待っている客を
「用意ができました」と呼ぶときの合図に銅鑼を叩くという。
最後の宗匠の言葉「今は効率化第一で何事もメールでやり取りする時代になった。しかし手紙をしたためて、きちっとした礼儀作法を学ぶのも教育の一環ではないか」重い言葉である。
一服の茶をよばれて久し振りに今日の空のようなさわやかな気分になった。                 
だるま談

夜、俳句も届いた。
  柿すだれ頷きながら鴉二羽  だるま

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併せてだるまさんから、東海日中関係学会「2020年度 第1回公開研究会 兼 緊急シンポジウム」に参加のお誘いメールを受けたのだが、盆栽展鑑賞の先約がある。昨年は見逃し、今年はコロナ禍で開催が危ぶまれていたのでぜひ鑑賞したいと思っている。


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基本 [だるま広報]

10月8日、だるまさんからLINEでメールと写真が届いているのでアップします。

無骨庵和楽窯の陋屋です。(wild注 陋屋→ろうおく 狭くてむさくるしい家 自分の意見の謙称)
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ろくろを回した後で芝生に寝転んで居眠りをすると秋の風を感じるようになりました。
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昨日は基本に返って茶碗を作りました。
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本日の一句
  秋の音や瀟殺として平家琵琶  だるま

だるまさん注 瀟殺(しょうさつ)秋風が草木を枯れ萎ませるもの淋しいさま。平家琵琶は建中寺に伝わる平家琵琶を聴いた印象です。

↓ 建中寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B8%AD%E5%AF%BA


私が初めてロクロ作りを教えてもらったのは飯茶碗、次が湯飲み茶わんでした。
だるまさんの未焼成作品もだいぶ溜まっていると思われるので、そろそろ焼きあがった作品が観たいと思っています。
と、同時に基本に戻るということは大切ですが、私たちの時代の基本動作と今の現役の人たちの基本動作が、変っているのだということを認識しないと、どうも上手くいかないなぁということを実感しています。

明日は、皆さんに我が家の嬉しい報告をしたいと思っています。


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作品展 [だるま広報]

10月2日、昨日、だるまさんが展示会場から送信してきました。だるまさんの友人で同人誌『山波』にも掲載される「らくだ句会」の俳人、亀吉さんらの作品展です。
名古屋市中区錦一丁目20番12号伏見ビルB1のギャラリー名芳堂「第4回Passion×4」で、10月4日まで開催されています(入場無料)。
許可を得て送信されてきたのでアップします。
「絵画? 、イラスト? でしょうか」と訊いたら「イラストというより抽象画ですね。赤と線の使い方がいいね。亀吉さんのは、絵というより線を組み合わせた作品です」と返ってきました。

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傾斜させているところと、第4回、×4、4日までの4並びが印象的です。
伏見のギャラリーだと会場使用料も高いだろうなぁ、と非芸術的なことを考えちゃいました。

今日の未明に届いた、だるまさんの「本日の一句」
  もう少し遠くへ犬と鰯雲  だるま

最後の絵を意識した句なのか韻律がいいですねえ。
ところが今朝のロクちゃんは、ストライキを起こしてテコでも動かず散歩拒否だったようです。
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何を怒っているのかは分かりません。

夜、こんなのも来ました。
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家人さんの第2クール1本目へ行く前に、国勢調査を仕上げてしまおうとしたら市役所のミスだらけ。
担当課へ注意して、通院から戻ったらまたしてもミスが。
今度は担当課長へ注意したのだが、こういうことを放っておくとさらに色々悪くなっていくので、敢えての注意。その内容については、他になければ明日アップしようと思う。

今夜は昨日より1時間早く撮ったのだが、やっぱり電線が。
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  満月や推薦別れる学術会  猪口


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JAZZ三昧 [だるま広報]

9月22日早朝、明日から雨模様なので久しぶりに菜園の雑草整理と最後の収穫をして、2時間の労働。
朝食後は盆栽の整理までしてしまい午前中は終わる。

未明、ちょうど一眠りして目覚めていた時に、だるまさんちのロクちゃん写真が届く。昼食後PCを開いたらやはり未明に、だるまさんから『JAZZ KISSA  BASIE』の映画鑑賞感想文が届いていたので、今日はだるまデーで行こうと思う。

ロクちゃん「頭ボサボサでカッコ悪いので散歩行きたくないわ」
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「そして床屋へ行ってきた。風呂に入って髪の毛切って7,000円、ジイ(だるまwild注)さんは老人割引で1,450円。髪の量の差だな。ザマアミロ ! 」
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       ジャズな人とは?
               東谷山六兵衛

 半年ぶりに映画館に来ました。とはいっても名演小劇場という収容人員百数十人程の小劇場です。まだ続けているのかという向きもあろうかと思いますが立派に続けています。1972年に芝居もできる劇場としてオープンしていますから彼此50年です。商業シネコンでは上映されない隠れた佳作を上映し続けています。コロナ禍で入場者が50名に制限されており、チケットを買うと番号札を渡してくれて、とりあえず私は48番でした。
 この日上映されたのは『JAZZ KISSA  BASIE』。岩手県一関市の開業50年になるジャズ喫茶を5年にわたって取材したドキュメンタリー映画です。先日中日新聞にマスターの菅原正二氏の原稿が掲載されました。氏は音に拘り、JBLの最高級オーディオでレコードを聴かせます。
「便利な世の中になって音楽を持ち歩けるようになった。しかし便利を優先して感動を置き忘れてはいないか」と。
 氏のこの言葉に心打たれました。私もジャズ歴50年(とはいっても専ら聴く方だが)薄暗い店で煙草をふかしながら、難しい哲学的な(?)顔をしてジャズを聴いた身としては成程と頷ける言葉です。今ではスマホで歩きながら音楽が聴けます。斯くいう私自身そういう聴き方をしています。しかし映画に出てくる喫茶ベーシーのJBLのスピーカーから流れてくる迫力には勝てません。同じ曲でもまるで別の曲のようです。昔、入り浸っていたジャズ喫茶の大スピーカーから生み出されるベースの音はバリバリと空気を震わせ、胃下垂が治ったような気がしたものです。
 映画の氏に対するインタビューで「ジャズを聴くにはジャズな環境が必要だ。垂れ流しはよくない」と語る場面があります。これは何事も便利で軽さをよしとする風潮に対する痛烈な社会批判のような気がしました。
 オーディオとレコードに拘る氏を5年間追いかけて、カウント・ベーシーはじめ店を訪れた有名ジャズメンとのインタビュー、更に小澤征爾が語るジャズとクラッシックの違いと共通点など、思わず映画に引き込まれます。
「ジャズというジャンルはない。ジャズな人がいるだけだ」と氏は映画の最後で語ります。ジャズな人とは?氏が追求してきた音に対する拘りをもって聴くという事でしょうか。
 この映画のオープニングで原野を走る列車の汽笛をJBRのオーディオ装置からの大音響で聴かせています。
この先、ジャズ喫茶ベーシーは何処へ行くのでしょうか。

だるま俳句も届いた。
  彼岸会や馬頭観音うま揃え  だるま
    wild注 竜泉時は名古屋市守山区の天台宗の寺院、本尊は馬頭観音

それにしても、だるまさんは元気な人である。
そぞろ歩き、陶芸、絵付け、ジャズ、落語、同人誌、俳句、読書、ロクちゃんの散歩、子どもたちの見守り、自治会長、野菜作りと料理を少々。
夜遅く、朝早く、付き合っているロクちゃんも大変だなぁと思う。


夏野菜の今年最後の収穫。
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ピーナッツバターカボチャ、ミニトウガン、オクラ

今日も家人さんを黙って観察していたのだが、杖なし,伝い歩きなしでいいと思う。
それでも夕食時に「痛い」というので、私も言ってしまった。
「確実に良くなっているよ、明日は今月最後の1本を打ちにいくからね」と。
案の定、本人は歩き方が格段に良くなっていることに気づいていなかった。
痛くても歩けるのと痛くて歩けないのとは、とても大きな違いがあるのだが、そういうことも本人が勉強していくしかないと思っている。
明日からは、「良くなっている」「良くなった」を連発して洗脳してしまおう。

そうそう、夕方蜂の巣に向けて3回目の必殺ジェット噴射、一匹だけ出てきて荒れ狂っていた。これで良しと、巣を落とした。帰って来る蜂のためにとりあえず巣は未処分、明日処分するつもり。


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安倍三代 後編 [だるま広報]

9月15日、家人さんが脊柱管狭窄症の治療であるオパルモン注射を、今日はもう勘弁して欲しいと起きられない。連続して打ってこそ効果が現れるのだから今月はあと4日頑張りましょうと、あの手この手で説得をしても無理だった。
「連続して来れます」と、医師との約束もあり、昨日も「続けましょうね」と言われ「はい」と答えているのだから、私だけで病院へ行ってきた。
「もう11本打ったのだから、どうしても無理なときは来なくていいですよ。その程度の話であればわざわざ来なくて電話でいいですよ」と言われた。
人との接触は信頼関係があってこそであり、特に医療はこの信頼関係によって良い治療が受けられると信じている。
今日、私が電話で済ませば、医師からすれば「なんだ、来れなかったじゃないか」で、信頼関係が崩れることもある。
これで次からは「すみません、今日はパスします」で済ませられると思う。


昨日の続きである、だるまさんの読後感想「安倍三代」であるが、いよいよ強運で生きてきた安倍晋三に触れていく。
新総裁選出をとらえた、だるまさんの狂歌を一つ。

  勝馬のオッズ1倍出来レース永田町には八百長ありや  だるま

少なくとも、今回の新総裁選出の経緯と組閣にあたっては、これが国民のためなのだろうかと信頼することができない。


   『安倍三代』(青木理著)を読んで 後編
                 東谷山六兵衛

 初代、二代は政治家としての類まれなる力量を持ちながら病で、志中途にして早逝した。
 しかし晋三は第一次安倍内閣の時代に施政方針演説を行った二日後、病によって職を辞した。「政権ぶん投げ」といわれたものである。
 しかし二年間の民主党政権(あまりにひどすぎた)の後、再度総理に選ばれた。私もその当時いつまで持つかなと思っていた。しかし第二次安倍政権は「アベ一強」と呼ばれ、つい最近在職期間が歴代最長となった。 
 著者はこの晋三についてどんな子供だったかを友人知人たちから取材し、興味深い分析をしている。
 母親の洋子によると幼い時、母方の祖父にあたる岸信介首相に可愛がられ、南平台の自宅によく遊びに行ったそうである。60年安保反対デモを真似て「アンポ ハンタイ」とはしゃいで家の中を走り回っていたという。岸首相もそれをニコニコ笑いながら見ていたそうである。これ程までに溺愛されれば岸信介の信奉者になるのも無理はないだろう。
 晋三は手のかからないお行儀のいい、いわゆるいい子だったと長年晋太郎の秘書だった女性も話している。そして小学校から中学校、高校そして大学までの16年間を東京の成蹊学園で過ごす。ここでも友人たちは「勉強が特別にできたわけではなく、かといって出来ないわけでもない。スポーツでも際立って目立ったわけでもない。クラスでも積極的に手を挙げて意見をいうタイプではなかった」と一様に語っている。つまりあまり印象に残らなかった生徒である。私の周りにも沢山いたごく普通の生徒である。ただ父親が政治家であり、後を継ぐんだという話は聞いたことがあるそうだ。成蹊学園で晋三と机を並べた連中は首相になったことに皆驚いている。神戸製鋼に入社し2年間のサラリーマン生活でも特に個性のある社員ではなく上司からいえば扱いやすい社員であった。
 そうであるならば晋三はいつからまるで別人のようになったのか。安倍晋太郎の息子で岸信介の孫という閨閥だけでは説明がつかない。首相になるだけでも並大抵ではないのに、病が原因だとはいえ一度政権を投げ出した人物が再度首相になり、歴代首相の在位を更新するような大政治家(?)になったのか不気味ですらある。大方の人間は政界に入ってから変わったのではないかという。狼の中に仔羊が入りその仔羊がいつの間にか狼になったのではないかと晋三を知る人は話す。客観的には世間が民主党政権に失望し、一年ごとに変わった政権に飽き飽きして強い政権を求めていた時代の雰囲気にも合っていたのであろう。そこに世襲政治家の代表であり、サラブレッドである晋三は登場した。
 政権を支える人たちはそれを巧みに利用した。日銀と組んでのアベノミクス、集団的自衛権の行使容認を認める安保法制の強行採決、更には憲法改正、晋三を支持する右派勢力にも相互作用を及ぼす政策を次々に実行し、更に支持を広げていく。そして「安倍一強」といわれるようになると、自民党議員、官僚、そしてメディアまでが「忖度」するようになる。この本の著者の青木理氏は青年期迄の晋三を取材して、確たる政治に対する信念もなく、これを成し遂げるんだという強烈なエネルギーもない三代目の世襲政治家はどうすれば祖父岸信介や周辺の狼たちに喜ばれるのか、という思いだけで「総理大臣安倍晋三」を見事に演じているのではないか、勿論そこには政治家の核としての知も地もない、と結んでいる。小澤一郎が晋三を評して「おやじの晋太郎は運がなくて、総理の座まであと一歩で届かなかった。晋三はそういう意味では運だけは持っている」とインタビューで答えている。そういう政治家が戦後75年に渡って積み重ねられてきた「この国のかたち」を変え、また変えようとしている。
 私の周りのいわゆる無党派層も安倍支持者はほとんどいない。スローガンだけは目まぐるしく発しているが殆ど食い散らすだけで達成されていない。それでも内閣支持率は50%を切ることはない。そうする周りも大政治家のように扱う。独裁者は民衆の熱狂の中で生み出されるという。何となく不気味で怖しい話ではないか。
 前述のとおり、安倍首相は持病の潰瘍性大腸炎のため二度目の退陣をすることになった。
 退陣前の内閣支持率は32%近くまで下がっていたが、退陣表明後の支持率は50%近くに跳ね上がった。病気退陣という理由での判官贔屓という一面があるにしろ、内閣支持率が上がるという現象はよくわからない。
 自民党大多数の派閥は「安倍政治の承継」ができる政治家として後継に菅義偉官房長官を推している。開票結果を待つまでもなく殆ど決まりである。この先、菅首相による「第三次安倍政権」になる事はほぼ確実であるがとりあえず表舞台から安倍晋三は退場した。
 石橋湛山流に言うならば「病による退場もまた社会奉仕」という事になるだろう。
 コロナ禍によって奇しくも露呈された日本の社会基盤の弱さを変革していかなければならない時に「安倍政治の継承」とは……。
 長老による密室政治が罷り通るこの国は本当に大丈夫かと暗澹たる気持ちになる。


蕾が咲きそろったら撮ろうと思っていたのに、常に住み着いていたバッタを保護していたので花弁を全部食べられてしまった。
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強い剪定(大改造)をして、ここは一つバッタが寄り付かないようにすれば年内にもう一度花が見られると思う。


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安倍三代 [だるま広報]

9月14日、今朝は23度まで下がったので肌寒さを感じた。
どっちらけの新総裁が就任、数日前から決まったかのごとくの報道で、新聞もTVも見る気が失せていた。
だるまさんも同じ思いで『安倍三代』の読後感想を書いたようだが、感想文が届いていて今日まで私が預かっていた。
私の先月からの、某大企業が説明責任を果たさない対応について今日、副店長を呼んで再々度、問題点を指摘した。彼も私の主張を理解していても、会社には逆らえないという時代。説明しようとしない風潮こそ、安倍政権の問題だと思わざるをえない。
さらに一言いえば、課長たるもの自分で食い止めるのが我々世代の組織であった。説明になっていない回答書を持ってくる段階から副店長を連れてきたのは情けない。


だるまさんの「本日の一句」
  気の滅入る政り横目にジャズピアノ  だるま

それはそれとして青木理氏の著書の内容を、教えてもらうことはありがたいこと。長文なので2回に分けて掲載。


   『安倍三代』(青木理著)を読んで
                 東谷山六兵衛

 8月28日、安倍首相は突然、辞意を表明した。持病の悪化が原因だそうである。これで2度目。世間は同病を患う人に対して失礼だという論調もあるが責任ある首相たるもの一度目は悲劇であり、二度目は喜劇である。
 しかも話題は後継者選びに移っており、どんな方法で次期総裁を選ぶか二階幹事長に一任という相変わらずの永田町の論理が優先している。これについては日々情勢が変わっているので後述したいと思う。
 私は安倍晋三という政治家に対してはいい印象は持っていない。しかしなぜ自民党内で7年8カ月も首相を続けられたのかその理由もよくわからない。
 奇しくも私は『安倍三代』(青木理著)を読み終わったところであり、何か妙な因縁を感じている。
『安倍三代』は晋三にとっての父方の祖父寛、父晋太郎、そして晋三について書かれており、著者及び二人の取材者による関係者への聞き取り取材、および資料に基づいたルポルタージュ、ノンフィクション作品である。
 寛は下関市から遠く離れた旧日置村(現在長門市)で明治27年に生まれた。安倍家は代々醸造業を営んでおり、広大な土地を所有するこの地方の名家であった。しかし寛は1歳で父を亡くし、4歳で母を失った。母の姉のヨシに育てられた寛は物心ついた時から政治家を志し、東京帝国大学政治学科に入学する。政治家になるには金を作らなければならないと、会社を興す。そして嫁も貰い、一粒種にも恵まれた。これが晋太郎である。しかし関東大震災の影響で家業は倒産、妻も離縁して失意のうちに晋太郎を連れて日置村に帰る。悪いことは重なるもので結核に倒れるが村民のたっての頼みで村長職を引き受ける。
 しかしその頃戦争が拡大し、地方の生活は疲弊し、中小業者は倒産、娘を売る村民も出てきた。もとより富の偏在に怒りを感じていた寛は1937年の衆議院選挙に立候補し、国会議員を目指す決意をする。寛の社会的弱者の目線に立った主張は多くの村民に支持され初当選を果たす。当選後も軍部に阿ることもなく反戦、平和、富の平等な分配を主張する。当時の初当選組には三木武夫、赤城宗徳などがいる。戦火が拡大した1942年の選挙では大政翼賛会という国策選挙であったがこれに抗って翼賛会の非推薦候補として特高警察などの弾圧を受けながら見事当選を果たした。終戦直後の1946年に病状が悪化して急逝する。在職期間十年、反骨、反戦、反権力の政治家であった。享年51。早すぎる死である。
 その息子の安倍晋太郎については福田派のプリンスといわれ我々の世代には馴染みのある政治家であった。幼少時代は旧日置村で野山を駆け巡り、ガキ大将で面倒見がよくスポーツ万能、学力も優れていた。ただ父寛が離婚していたので乳母の小島ミヨや叔母のヨシに育てられた。兄弟もいなくて孤独な少年でもあったようだ。この頃晋太郎は「僕のお母さんは何処にいるの」と親戚の連中によく訪ねたそうである。山口中学から東大へ入学した。東大在学中に滋賀航空隊に入隊し、特攻を志願する。すでに水中特攻の訓練も受けて
死ぬ覚悟もできていた。しかし敗戦。九死に一生を得た晋太郎は東大に復学する。
 その頃、相次いで不幸が彼の身に起こる。まず父寛の急逝、そして母親代わりのヨシまで喪ってしまう。
 出征するにあたって、寛は「この戦争は負ける。敗戦後の日本が心配だ。若い力が必要だ。無駄死にはするな」とアドバイスしていたという。
 東大を出て毎日新聞の記者になり、やがて政界へ打って出る。岸信介の娘洋子と結婚するが「俺は岸信介の娘婿ではない。安倍寛の息子だ」というのが口癖だったと周囲の人間は苦笑交じりに話している。確かに岸信介の娘婿というブランドは大きいが周囲の目はともかく本人はそういわれることを嫌っていたらしい。晋三と違って在日コリアンへの偏見などはなく、在日の支持者もかなりいたという。いつもニコニコしていて政治的バランス感覚の取れた政治家であったと記憶している。
 しかし次期総理候補と期待されながら、平成3年肝臓がんで死亡。享年67。
 そして先日総理大臣辞任を表明した安倍晋三。この政治家は初代、二代と違ってつくづく強運な持ち主の政治家であると思う。

                                   明日に続く


1日休んで今週も家人さんの通院、夕方、私の腰痛通院の間に、午後の来客もあったためか疲れてしまって痛みも急増した様子。
痛みはメンタル面の影響も大きいので注意したい。
私も老いては行動しないことも視野に入れないと。


家人さんの病院前の花
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志段味八景犬公戯(22) [だるま広報]

8月25日、昨日咲いた小原の四季桜、秋の開花期を大幅にフライングしているのだが、折角なので室内へ入れておいた。今朝、家人さんが「バッタが着いているよ」と言うので撮る。
相変わらず目敏い人だ。腰は大丈夫なのかなぁ(・・?
午後、所用で星が丘へ行ったら、テラスに珍しく名札をつけた花があったのでこれも撮る。

まずは予告どおり、だるまさんの「志段味八景犬公戯」をアップしようと思う。
古典落語の名作「地獄八景亡者戯」をもじったタイトルらしい。
だるまさんちのロクちゃんを散歩に連れて行って、知り合ったワンコ友達の飼い主さんたちにだるまさんが毎月配布しているちらしで毎月80部くらいと聞いた記憶がある。
志段味は名古屋市内の地名、だるまさんの昨日までの「江戸ぶらり散歩」とは異なる口調に、地域に溶け込んでいるだるまさんの姿が見える。

今日のロクちゃんは、いつもより兄さんぽっいぞー。
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地域奉仕活動のだるまさん。
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「近くにデンジャラスソーンがあるので、朝の2年間、立ち番をしました。来月からお役御免です。嬉しくもあり寂しくもありです。」

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     志段味八景犬公戯(しだみばっけいわんこのたわむれ)(22)

                   東谷山六兵衛
 
長かった梅雨もやっと終わると、すでに8月、いきなり猛暑襲来です。しばらく成りを潜めていたかに見えたコロナウイルスも各地で再び猛威を振るっています。猛暑とコロナのダブルパンチです。4月の緊急事態宣言時には感染者が少なかった沖縄など医療施設が充実していない地方にまで拡大しています。
なにしろ子供から高齢者まで経験したことのないコロナ禍なのでアドバイスすることはできません。尚、厄介です。様々な政府関係者、お医者さんなどがいろんな意見を言っていますが医学的知識のない六兵衛にはどれが正解かさっぱりわかりません。
ただテレビでよくお目にかかる岡田晴恵先生は感染学の専門家であり、おばちゃんだけあって政府に忖度しない発言は分かりやすく、ファンになってしまいました(出だしの頃からは随分洗練されました)。おばちゃんはワクチンも治療薬も開発されていない現在はPCR検査を簡単に、もっと安く受ける事ができるようにする必要があるといっています。そうすれば発症していない感染者も見つけ出すこともできて感染が広がるのを防ぐことができるかもしれませんね。経済との両立もできるかもしれません。
それから「不要不急」という言葉が流行っています。
ワンコの散歩は、ワンコを飼っていない人から見れば不要不急にあたるかもしれません。人によって不要不急は異なります。
六兵衛はこの言葉に違和感を持っています。
先日、暇にまかせて直木賞受賞の『少年と犬』(文芸春秋社馳星周著)を読みました。「多聞」というシェパードがかった犬は東日本大震災で飼主を亡くし、様々な人を助け、また助けられながら列島を縦断し、5年かけて熊本まで辿り着く話です。なぜかこの犬は南の方を気にしています。最後の2ページは涙でメガネが曇り、文字が霞んで見えました。わが家のワンコとはえらい違いです。愛犬家の皆様には是非一読をお薦めします。
秋口からはインフルも流行するといわれています。ワンコ共々ご自愛ください。それでは皆様お元気で!

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私も最初から岡田さんを観ているのだが、なかなか頑張ってしっかり自分の意見を述べているように思っている。かつて話題になった小保方さんの未来がなぜかこうなっていくように思えてならない(あくまで個人の感覚)。
今日の星が丘は、同人誌絡みでだるまさんと会っていたのだが、その時、例の大企業さんの担当課長から電話が入った。「本部法務部が(文書回答の)チェックをしているので、明日まで待って欲しい」と言っている。私が質問している自社の商品説明に10日以上もかかるとは信じられない。
そういえば、昨日ディーラーから私に訳の分からないハガキが届いたので、星が丘で担当者に訊いてみたら、持ってきた自社保有のマニュアルでありながら、現在私の車に付いてるという「警備」とか聞いたこともない単語があったので、「これって、何のこと?」と訊いたら、悪びることなく「知りません」と返ってきた。
もう、こういうことが通用する時代になっているのだから、年寄りは去れと云われているのだろうか。


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続江戸ぶらり散歩 後編 [だるま広報]

8月24日、今朝、先日一枝枯れた小品の小原の四季桜が花を付けているのを発見。この暑さの中、異常に早い開花なので驚く。
それよりも、団子坂から三崎坂へ進み、さくら並木通りに入っただるまさんの「江戸ぶらり散歩」を追っかけてみたい。
ちょっと長くなるのだが、ガイド付きの旅行気分で最後まで行っちゃおう。

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 続江戸ぶらり散歩②
      東谷山六兵衛

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   谷中霊園さくら並木通りを歩く
 そろそろ正午だ。お日様が真上に上っている。
 汗がヒゲから滴り落ちる。谷中墓地の桜並木通りの木陰に逃げ込んだ。さくら並木通りのはずれに明治の毒婦といわれた高橋お伝の墓がある。以前小塚原の回向院でも鼠小僧と並んで建っているお伝の墓に出会った。私とは縁があるのだろうか。

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 墓の少し先には谷中天王寺の駐在所があった。墓に入ってまで監視しされているとは大した貫禄である。
 新聞小説で大反響を呼んだ仮名書魯文の『高橋阿伝夜刃譚』で毒婦高橋お伝は有名になり、魯文の呼び掛けで明治14年1月処刑後の三回忌に墓が建立された。建立者は小川市太郎とある。お伝の最後の夫である。寄贈者名が墓石の後ろに刻まれているが歌舞伎の守田勘弥、尾上菊五郎、市川左団次、市川団十郎、噺家の三遊亭圓朝など当時の錚々たる顔ぶれである。
 お伝が毒婦と呼ばれるようになった経緯について少し書き加えたい。
 お伝は最初の夫が悪病に取付かれ、寝たっきりになったので見るに見かねて毒殺し、他の男のもとに走った。
 その男と共に借財を重ね悪事を働く。浅草蔵前の旅館に姉の敵といわれている金貸しの男の誘いに乗り同衾するが男が金は貸せないと言い出したので、逆上して殺害し金を奪って逃げる。やがて逮捕され斬首の刑に処せられる。時代は明治になっており、お伝は打ち首に処せられた最後の女囚であるといわれている。お伝の遺体は解剖せられ、その性器が悪女の標本として長い間、東京陸軍病院に保存されていたという。
 しかし魯文はお伝を明治維新から捨て去られた貧農の娘として捉えており、お伝に殺された男も昔、姉を騙して殺した男で敵討ちだと。お伝に同情的に書いている。
 落語で高橋お伝の名前が出てくる「転宅」という噺がある。旦那から大金を渡された妾を見た泥棒が妾の家に押し入るが、脅しても妾は全然怖がらない。それどころか、私もご同業だよと、嘘を言う。その時妾が「私のおばあちゃんは高橋お伝だよ」と啖呵を切ると泥棒は「お見逸れしやした。恐れいりやした」と頭を下げる。形勢逆転、男は妾と夫婦約束をさせられてしまい、約束の証として財布を取り上げられてしまった。次の日に行くと妾の家はもぬけの殻、妾は引っ越してしまった後である。泥棒が逆に金を巻き上げられてしまうという他愛のない噺である。泥棒の世界でも高橋お伝は当時のヒロインであったのだろうか。
 霊園の花屋のおばちゃんの話によるとお伝の墓はお参りすると三味線や踊りなど習い事が上手くなるという言い伝えがあるそうな。成程墓前には花が手向けられ、線香の煙がゆらゆらと風になびいていた。
 お伝の話が長くなった。この桜並木通りを歩いていると有名な人たちの墓や碑が建ち並んでいる。お伝の墓のすぐ隣には自由民権運動で名を馳せたおっぺけぺ節の川上音二郎の台座があり(ただし銅像はなくなっていた)、すぐ向かいには新国劇の創始者沢田正二郎の墓がある。気になったのは有名人の墓の前に置かれている石の名刺受けである。あの世で名刺交換をするのだろうか。
 少し歩くと幸田露伴の五重塔跡や蛍坂を下ると岡倉天心記念公園、東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫の朝倉彫塑館がある。明治が息づいている町であった。

   王子の狐に会いに行く
 都電荒川線町屋駅から都電に乗り、王子駅に向かう。
 この電車は荒川区の三ノ輪橋駅から早稲田の停留場まで12.2㌔を約56分で結ぶ都内唯一の都電である。運賃は均一料金170円,、マナカを使うと165円であり時間と暇を持て余す身には非常にありがたい。最近では東京さくらトラムと呼ぶのだそうである。駅名も巣鴨新田、鬼子母神前、面影橋など江戸の名残を感じることができる。車窓から見る風景は入り組んだ路地、昔からの神社や夏祭りの露店など昭和に立ち返ったような気がする。20分ほどで王子駅前につく。この辺りは電車が路面を走っている。車が電車を追い越していく。
 ここは約半世紀前、大学受験で上京した時に従兄の下宿があり、ここに転がり込んで約三カ月過ごした懐かしい思い出がある。よくきた駅の裏の映画館はもうない。
 駅の隣には飛鳥山公園がある。落語の『花見の仇討』の舞台になったところだ。しかし真夏の飛鳥山は興ざめである。山を登るだけで汗が噴き出る。やっとの思いで上まで辿り着くと飛鳥山碑(東京都教育委員会)が目に留まった。
 碑によると八代将軍吉宗が桜の苗木を植えた。数年経って花が咲きだすと江戸庶民にも開放され、多くの水茶屋もできて江戸庶民の花見の名所になった、と書いてある。
 享保の改革は庶民の締め付けだけでなく、花見も奨励したようである。余談だが飛鳥山碑の原文は達筆な文字使い過ぎて読めるものは滅多にいなかったそうである。
飛鳥山なんと読んだか拝むなり、という川柳も残されていると案内板に書いてあった。
 飛鳥山を下りていよいよ落語『王子の狐』の舞台になった王子稲荷に向かう。王子神社に沿って歩くと王子稲荷が見えてくる。お稲荷様の隣は保育園の園庭になっていて、正面の楼門からは中に入れない。園の中では暑さも何するものぞ、と子供たちが大声を出して遊んでいた。

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 保育園脇の急坂を上り、横の鳥居をくぐって社殿にお参りする。この『王子の狐』という落語は人間が狐を騙すという噺である。
 ある男が王子の稲荷さんに参ろうと田舎道を歩いていると稲穂の陰で若い娘に化けている狐を見つける。
「いい女だね。いったい誰を化かすつもりなんだろう。
 騙されたつもりで騙してやろうか」と男は昔の知り合いのような顔をして馴れ馴れしく声をかける。
「お玉ちゃん。きれいになったねえ」。狐も調子を合わせて「あら、お久しぶり」。男は久しぶりで積もる話もあるからと扇屋という馴染みの料理屋に連れていく。
 そして狐のお玉に調子のいい話をして飲んだことのないという酒を無理やり飲ませ、酔っぱらわせてしまう。
 男は酔っぱらって寝ているお玉を料理屋に残し、「連れは酔っぱらって寝ています。もう少し寝かせてやってください。勘定は目を覚ましたら連れの女から貰ってください」と土産の卵焼きまで持って先に帰ってしまう。
 お玉が何時までも降りてこないので店の者が起こしに行き「お連れの方は先に帰られました。勘定はあなたから貰ってくれといって帰りました」。びっくりしたお玉は慌てふためいて狐の姿に戻ってしまう。「狐に化かされたー」お玉は店の者に袋叩きに合い、命からがら扇屋から逃げ出した。その場に帰ってきた店の主人は騒ぎを聞いて店の者を叱りつける。「王子のお稲荷さんのおかげで商売させてもらっている。ご馳走して帰ってもらうのが当たり前だ」。店を早じまいして早速、王子のお稲荷様にお詫び参りをした。一方、狐を騙した男は自慢げに友達に話し、土産の玉子焼を渡すが狐を騙すと祟りはある、と脅されてぼた餅を土産に狐の穴にお詫びにいく。
 ちょこちょこと出てきた子狐に「この辺にケガをした狐はいないかい」と聞くと「うちのおっかさんだよ。昨日悪い人間に騙されて大けがして帰ってきたよ」「おじさんのせいなんだよ。つい悪ふざけしてしまったよ。これはお詫びのしるしだ。おっかさんに謝りにきたと伝えておいておくれ」といってぼた餅を置いて帰っていく。これを聞いた母狐は「これを食べるんじゃあないよ。馬の糞かもしれない」これがオチだが人間が狐を騙すとは随分罰当たりな話である。狐は古来、稲荷神の使徒とされており稲荷は五穀豊穣、商売繁盛の神様である。

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 現代は「この男」が可愛く見えるほど弱者を騙す巧妙な詐欺が横行している。この噺は現代を予見して作られたような噺である。
 噺を思い浮かべて大鳥居の下を見ると二匹のお狐様がすました顔で鎮座ましている。噺のせいか何となく間の抜けた愛嬌のある顔にみえる。本殿は鬱蒼と生い茂った大木の陰にあり、お参りをして暫しの涼をとる。社務所の傍に『願掛けの石 狐の穴跡』と書いた表札がある。
 お石様の社殿には座布団の上に漬物石大の石が置いてあり、軽く持ち上げられると願いが叶うそうだ。やっとこさ持ち上がったが、このへっぴり腰では大願成就は覚束(おぼつか)ないだろう。社殿の奥には奉納された土焼の狐がずらりと並んでこちらを見ている。狐の世界に引っ張り込まれるような不気味さを感じた
 本殿の脇から狭い石段を登る。高い木立がおい繁り、狐の洞にふさわしい霊気が漂っている。洞の前の小さな稲荷堂の両脇に鎮座する二匹の狐はキッ、とした表情で洞を守っている。しかしこの石の狐には金網がかぶせてあった。落書きや、石を砕いて持ち帰るような悪さをする人間がいるのだろう。狐もおちおち休んでいられない世の中である。王子稲荷の大鳥居を出ると西に傾きかけたお日様が容赦なく私を照らす。風もパタリと止んでいる。首にかけた手拭いで汗をふきふき急坂を下っていると、汗だくの私を見兼ねたのか園児のお迎えのお母さんが「わぁー暑そうですね。もう少し下りると涼しい滝のある公園がありますよ」と教えてくれた。早速そちらへ向かう。名主(なぬし)の滝公園と呼ばれ、立派な薬医門を潜ると滝の水音が聞こえてくる。木陰に座って一休みする。老人憩いの家が園内にあるが暑さのせいか人影は少ない。
 滝の水を手に掬い、頭を冷やすとやっと人心地つけた気分になった。滝の音を聞きながら木陰でウトウトしていると、「ここは暑いから憩いの家の中で休みなさい。クーラーも効いてるわよ」とおばあさんが声を掛けてくれた。お言葉に甘えて休ませてもらう。おばあさんは冷えたお茶まで出してくれる。シャキッとした江戸言葉は耳に心地よく響く。「夏はこの辺りは何もないわよ。権現様の夏祭りはもう少し先だし。それより上野不忍池の蓮は今が見頃だわよ。夕方だから開いている花は少ないかもしれないけど池一杯の蓮は見事ですよ。帰る途中で寄ってみたら」丁寧にお礼をいって王子駅に向かう。
 まだ帰るには早いし途中で不忍池の池によってみるか。電車を待ちながらそんなことも考えた。
                                   終 

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この「続江戸ぶらり散歩」、3回分割でアップしようと思っていたのだが、幽霊から始まり、つい落語に釣られて2回で済ませてしまった。そこへ、だるまさんから「志段味八景犬公戯(22)」(しだみばっけいわんこのたわむれ)が届いた。
ちょっと小原の四季桜も気になっているのだが、今度はロクちゃんに関わりがあって短文でもあるので明日も「だるま広報」でいっちゃおう!


東京の感染者が47日ぶりに2桁になった。
安倍ちゃんの健康問題で周辺が慌ただしい。
春以来の盆栽展案内ハガキ(名古屋市西区庄内緑地)が届いた。春に来た他市の案内は追っかけて中止のハガキも届いたのだが、今日のハガキは「開催については公式サイトでご確認のうえ」と、注意書きがある。来月中下旬なので期待できるだろうか。
大村さんが愛知の緊急事態宣言と休業要請を解除した。

なんだか大きな潮の変わり目のように見えるのだが、私としてはもうしばらく様子を窺いたい。


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続江戸ぶらり散歩 [だるま広報]

8月23日、昨日の雷雨で少し涼しくなったような気持ち。

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オジギソウが這うように小庭から飛び出してくるので、切って花入れに挿している。


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先日、だるまさんが同人誌「山波185号」(2017年8月10日発行)に綴った「続江戸ぶらり散歩」の生データを送ってくれた。
私か幽霊は苦手であることを以前伝えてあったのに、幽霊のことから始まる。あまりにも暑い日が続いたので涼しく過ごすようにとの配慮だったのかもしれない。落語を絡めた上手な文章。
6600字にも及ぶものなので分割してアップしようと思う。


      続江戸ぶらり散歩①
                東谷山六兵衛

 朝だというのにとにかく暑い。先日、東京は低気圧が梅雨前線を刺激し、ゲリラ豪雨に見舞われて大粒の雹(ひょう)が降ったそうだ。そして梅雨明け宣言、本格的な夏が来る。
前回「江戸ぶらり散歩」は桜の季節。花もあり、酒もあり、隅田の川風も心地よかった。
   
   谷中D坂から三崎(さんさき)坂へ
 今、地下鉄千駄木駅の出口に立っている。信号を渡ると谷中団子坂である。この坂は大正13年、江戸川乱歩の初期の探偵小説「D坂の殺人」の舞台になったところだといわれている。むろんD坂は団子坂の頭文字である。 
この作品で初登場する明智小五郎は以後名探偵となって乱歩の作品の主人公として活躍する。
 このD坂の通りにある古本屋で発生した密室殺人の第一発見者となったこの本の語り手である「私」が明智小五郎と事件を解決していくというストーリーである。
 まだ推理小説ではなく、探偵小説と呼ばれていた。乱歩自身がこの辺りで古本屋を営んでおり、この辺りの事情には明るかったようである。
 「私」と明智小五郎が知り合って、お茶を飲む「白梅軒」という喫茶店は、当時を想いおこさせるような佇まいを残し「乱歩」という名前で営業している。店の横には「D坂より308歩 散歩の後は乱歩のコーヒー」と年季の入った看板が掲げられている。生憎、準備中で中へは入れなかったが、ガラス越しに覗くとモジャモジャ頭で棒縞の浴衣を着た明智小五郎が冷やしコーヒーを飲みながら顎に手をあて、物思いに耽っている姿を見たような錯覚にとらわれた。
 密室殺人事件の結末については興味のある方は「D坂の殺人」を読んで頂くことをお薦めする。
 さて団子坂を少し上ると旧町名「下町まちしるべ谷中三崎(さんさき)町」と書いた案内板が建っている。
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「三崎」とは駒込、田端、谷中の三つの高台に向かっていることから名付けられた、と説明してある。この街を東西に上っている坂が三崎坂である。この三崎坂は三遊亭圓朝作の怪談噺「怪談牡丹灯籠」で死んだ筈のお露さんがお付き女中のお米を従え、牡丹灯籠を手に持ち「カラン コロン」と駒下駄の音を響かせて歩いた(?)坂である。恋い焦がれている萩原新三郎の棲む根津の清水谷を毎夜訪れてくるお露を新三郎も憎からず思っている。
 ある日、新三郎はお露の住まいがあるという谷中三崎を訪ねるがなかなか見つからない。通りがかった新幡随院の墓地の中に墨の後も真新しい卒塔婆と牡丹灯籠を見つける。寺の者にお露の墓だと聞いた新三郎は幽霊に憑付かれている事を知る。新三郎は怖くなり、新幡随院のの良石和尚に救いを求めると、死霊退散の御札を家の四方八方に貼り付け、死霊除の金無垢の如来像の守りを身に着けろ、と教えられる。御札を張り、如来像を身に着けてしばらくはお露の幽霊も門前払いだったが、隣家に住む伴蔵とその女房のおみねは御札と如来像を剝がしてくれたら百両上げます、と幽霊と取引してしまう。
 これが落語で有名な「牡丹灯籠お札はがし」である。いつの時代にも強欲な人間はいるもので伴蔵夫婦は御札をはがし、金の如来像と百両をもって生まれ故郷の栗橋宿に逃げてしまう。
 翌朝、新三郎は髑髏に抱き着かれた無残な死体として発見される。栗橋宿で百両を元手に小間物屋を始めて大儲けした伴蔵は酌取り女に惚れて、女房おみねを惨殺してしまう。お峰の亡霊はやがて伴蔵に取り付き悪事を重ねた伴蔵は捕えられてお仕置になってしまう。
 因果応報、悪因悪果、三遊亭圓朝の世界である。

   大円寺と谷中全生庵
 さて牡丹灯籠の話を書いたが少しも涼しくならない。
 先ほどの「下町まちしるべ」の案内板に書いてあった大円寺に立ち寄ろう。道の左手にある門を入ると本殿の手前に江戸時代の錦絵の開祖といわれる鈴木春信と笠森おせんの碑が寄り添うように建っている。
 笠森おせんは笠森稲荷前の茶屋「鍵屋」の看板娘で鈴木春信の錦絵によって江戸三美人の一人に数えられたという。この碑に永井荷風が撰文を書いている。
「女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、…錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影とどめて、嬌名今に高し…ここに阿仙の碑を建つ。大正己未夏 六月鰹のうまい頃」(台東区教育委員会)悔しいがまたも永井荷風である。文語調の粋な撰文はしなやかで艶っぽいおせんの姿思い浮かべさせる。この「江戸ぶらり散歩」で薄幸な女の碑文を書いている荷風によく出会った。薄幸な女を描く荷風にはやはり江戸がよく似合う。
 大円寺の門を出て少し歩くと全生庵という臨済宗の寺がある。落語ファンにとっては是非一度はお参りしたい寺である。近代落語の祖といわれる三遊亭圓朝が眠っている寺である。
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全生庵

 圓朝は『真景累ケ淵』や『怪談牡丹灯籠』『文七元結』など古典落語を創作し、演じた。寺では圓朝を悼んで、圓朝忌といわれる八月十一日に法要の後、落語が奉納される。そして八月中は圓朝まつりとして圓朝コレクションの幽霊画が一般公開される。今年は少し早かったが三年前に来た時には丸山応挙などの筆による幽霊画が多数並べてあり、そのおどろおどろしさに思わず背筋が凍りついたものである。
 圓朝忌には少し早いが圓朝の墓に参ることにしよう。
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 圓朝の墓はこの墓地の真ん中辺りにあり、墓前には花と果物が供えられていた。寺の話によると花と線香が絶えることはないそうである。私も汗を拭き帽子を取って手を合わせた。圓朝の墓のすぐ近くには勝海舟と共に江戸を官軍の総攻撃から救った幕臣山岡鉄舟の有蓋角塔の墓がある。山岡鉄舟が明治維新に国事に奔走して死んでいった人々を弔うために全生庵を建立したという。
 鉄舟と圓朝との出会いは禅を通じてであったらしい。
 鉄舟は圓朝に舌を使わずに語れ、などと禅問答を仕掛け禅の道へ導いていった。のちに京都天竜寺の禅師より『無舌居士』の号を授かっている。
 そしてこの寺に『春よ来い』『叱られて』などの作曲家弘田龍太郎の墓と曲碑があるのを知った。龍太郎夫妻の墓の傍らに『叱られて』の譜面が浮き彫りにされた曲碑が建てられている。そして新しく造成された墓地に「好樂無荒良士休休 詩経国風」と刻まれたピカピカの墓石がある。詩経とは中国最古の詩集で孔子の編だと広辞苑に記されている。この意味は理解できなかった。ゆっくり調べてみたいと思う。誰が建立したのか興味深い。


明日は、谷中霊園さくら並木通りを歩くからアップする。
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だるまさんの地図中にある茅場町に東京勤務時代5年間も東西線で通勤していたのだが、こういう位置関係にあることを知らなかった。
それほどまでに仕事に熱中していたのかなあ(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾

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そうそう、小さく狙ったサマージャンボミニ、またしても300円が当たったので報告しておこう。

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守山そぞろ歩き(11)番外編 [だるま広報]

8月16日、連日の暑さがボディーブローのように効いているのか今朝は7時でも起きられなくて、9時過ぎの水やりになりました。昨年から私の斜め横の区画で野菜作りを始めた(私より)高齢のOさんに久しぶりに会ったので、手術なしで脊柱管狭窄症を克服した治療法を訊ねてみて納得、教えてもらった整形外科へ明日にでも家人さんを連れて行こうと思っています。


だるまさんの歴史好みには頭が下がります。この暑い中、柴田勝家を辿ったのは「そぞろ歩き」どころか強い意気込みすら感じます。高校時代の1500m走では確か、学年3位に入ったのはダテではなかったようです。
文中の名古屋市名東区上社は、当地へ転居する前に私が住んでいたところなので、この歴史の地を知らなかったことに恥じるような気持ちになります。
そういえば柴田名が多かった記憶はあります。


      守山そぞろ歩き(11)番外編
          勝家残照
                     東谷山六兵衛

 名東区下社(しもやしろ)(陸前町)に明徳(みょうとく)寺という寺があります。上社JCTから南に約2キロ、坂を登り切った高台にあり、更に石段を数10段登りきると山門に辿り着きます。山門の左手前に「柴田勝家出生地」(名古屋市教育委員会)との説明板があり、「瓶割り柴田」のエピソードも標されています。右手前には「下社城址」の石柱が建てられており、この近くの家の表札に柴田家が多いのは勝家の縁者の末裔か。
 柴田勝家については信長配下の武将として手柄を立て、越前に北庄城を築城し城主として領民に対して治世を行ったと郷土史には記されています。猪突猛進の猛将というイメージが強いのですが、ルイス・フロイスという宣教師たちを保護しキリスト教布教を認めたり、関所を廃止し、年貢を軽減したりと行政手腕も優れていたようです。
 尾張下社城時代の若き日の勝家は幼名を権六といい信長の父、信秀に仕えていました。
 信秀死後、末森城(現在城山八幡宮辺り)にいた次男の信行に仕え、弘治二年(1556)清州城にいた信長を討つため稲生原(西区名塚辺り)で信長と戦うが敗北を喫してしまう。西区の庄内用水の畔には稲生の戦で亡くなった四百余の霊を弔うための庚申塚が祀られている。信行は末森城に逃げ帰り、信長嫌いの生母土田(どだ)御前の口添えで一度は許されるがその際、信長の器量に惚れた勝家は信長の家臣になってしまう。信行は性懲りもなく、再度の謀反を企て信長を殺そうとするが勝家の通報で逆に殺されてしまう。この辺りの話は先日放映されたNHKドラマ『麒麟がくる』に詳しい。
 さらに北庄時代の戦乱に明け暮れる勝家を支える武将たちは御器所(昭和区)に城を持つ佐久間盛政、同じく御器所出身で勝家の養子になった柴田勝政、東春日井郡稲葉村(尾張旭市)出身の毛受(めんじょう)家照(尾張旭市文化会館前に銅像が建つ)などが勝家の手足となって活躍しますが賤ケ岳の戦で勝家を守り、身代わりとなって討ち死にしてしまいます。
 賤ケ岳の戦いについて書いておかねばなりません。この戦は信長の死後の織田家の後継者争いです。清須会議で話し合いによって後継者が決まったかに見えたのですがやはり武力による決着しかなかったのでしょう。
 当初織田家の重臣たち(前田利家、不破勝光、金森長道)は勝家側につき、勝家を守る形で前方に陣を張ります。しかし戦闘が始まると動きません。秀吉と話が付いていたのでしょうか。総崩れになった勝家軍は多くの戦死者を出し、勝家は北庄城に逃げ帰ります。
 その時ここで死ぬといった勝家を諫め、勝家の御幣(馬印)を自らの馬に掲げ、敵を引き付けてその間に勝家を逃したのが前述毛受家照兄弟です。佐久間盛政は捕らえられ柴田勝政と毛受兄弟は戦死しました。
 それに引き換え前田利家はよく言えば機を見るに敏、悪く言えば日和見主義者です。秀吉死後も家康側に寝返りました。
 加賀百万石の殿様は世渡りが上手です。
 話は前後しますが勝家の戦歴(信長公記による)については信長初期の桶狭間の戦い、美濃の斎藤龍興攻略戦などには名前が記されておらず参戦していない。まだ信長に信頼されていなかったのだろうか。華々しい活躍を始めたのは浅井長政が信長から離反した時に起こった六角親子の勝家の居城長光寺攻めの頃からでしよう。
 この城攻めには前述明徳寺山門の案内板にあった「瓶割り柴田」のエピソードがあります。兵の目の前で籠城するに必要な水の入った大きな三個の瓶を槍で叩き割りました。
 もう水はない、決死の覚悟で城外に打って出よという檄を兵たちに飛ばしました。
 作戦が成功した柴田軍は大勝しましたがこの作戦は勝ったからいいようなものの退路を断って戦うという精神論のような気がします。
 その後、勝家は姉川の戦い、石山本願寺に呼応した長島一向一揆の鎮圧、比叡山焼き討ち、反旗を翻した足利義昭との戦い、朝倉義景を攻めた一乗谷の戦い、浅井長政を攻めた小谷城の戦い、など戦国時代とはいえ残虐な戦い方は、情け無用の最強の武将といわれたそうです。それも勝家のもう一つの姿なのでしょう。敵を徹底的に叩くという信長の戦い方の実行部隊だったようです。
 小谷城攻めでは皮肉にも最期の時を同じくする信長の妹、お市の方と浅井長政三人の娘茶々、初、江を救い出します。
 この頃から(もっと前から?)勝家はお市の方に恋心を抱いていたのでしょうか。
 本能寺の変の後の織田家の再興を描いた三谷幸喜監督『清須会議』では勝家(役所広司)、お市の方(鈴木京香)、秀吉(大泉洋)が絡み合い、勝家、秀吉共にお市の方をものにしようとする姿がコミカルに描かれています。
 何といっても光秀を討った秀吉の力は増していきます。しかしお市の方は氏素性が卑しく、野心家の秀吉を嫌っています。無骨だが織田家再興を一番に考える勝家は秀吉案(信長の嫡孫三歳の三法師を世継ぎとし、自らが後見になる事)を受け入れる代わりにお市の方と再婚し、三人の娘も北庄城に引き取ります。何という人の良さでしよう。やはり勝家に天下取りは無理でした。賤ケ岳の戦で敗れ、三人の娘を秀吉に委ね、勝家はお市と共に自害してしまいます。
 狡猾な秀吉は長女茶々を側室にして淀君と呼ばせ、最愛の息子秀頼をもうけます。しかし秀吉の死後、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させてしまいます。お市の方と勝家、浅井長政の因縁噺じみた結末に思えてなりません。
勝家がお市の方と一緒に死ねたのはせめてもの慰めでしょうか。やはり勝家は人のいい、愚直な武将だったのでしょう。
 柴田勝家の墓は福井市の菩提寺西光寺にあり、お市の方と共に静かに眠っています。

 コロナ禍の猛暑の夏、名東区、西区をマスク姿で取材。暑かったあ……!
 
庚申塚
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明徳寺石段
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稲生原
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下社城址
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今日の名古屋は38.2度、明日は何時に起きられるのでしょうか?
先日、売り場の綺麗なお姉さんの一声で1000円を追加投資した宝くじ、100円が当たりましたー。
だるまさんの文中にもある、光秀が映っています。
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だるまさんの近況 [だるま広報]

8月6日、この日だけは毎年広島勤務時代を思いだず。毎朝、原爆ドームを市電の中から観て心の中で手を合わせていた、というよりも自然に心の手が合わさっていた。
その前の岡山勤務時代の毎朝は、後楽園と岡山城を見ながら晴々と通勤していたのだが、今から思えば対照的な異動であった。
嫌々ながら転勤命令に従った東京から岡山への異動であったのだが、新幹線で名古屋駅を通り過ごして岡山へ向かうのはとても辛かった。トイプードルのラッキー君がいたので個室を取って、両親がいる老人ホームも見(える)ながらの車中だった。引き継ぎと赴任までの期間はそれほどゆとりがない時代になっていた。
しかし、広島よりも岡山のほうがいい思い出が多い。


今日は、家人さんのかかりつけ内科医の往診を受けた。家人さんの痛み治療について「色々手はあるので、頑張ります」と私に言ってくれた。この言葉だけでも、ものすごい安心感を覚える。この往診医、帰りがけに私に「独りで抱え込まないでね」とか、まさに医は話術でもあると思う。肝心の整形外科院長とは対照的、年齢は往診医の方が少し若いのではないかと思う。
昨日は院長にかなりムカつき、気持ちも沈んでしまった。今日の往診は家人さんより私の方が救われて、元気が出てきた。


だるまさんも頻繁にLINEをくれるので、ありがたいことである。
ワンちゃんの世界もなかなかむつかしいみたい。
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ロクちゃん(一番右)が「今朝散歩中に俺の子分に会った。最近俺より図体がデカくなって反抗的な態度を取るようになった。俺たちの世界にも揉め事があるぞ」。
ロクちゃん!、舐められないように胸を張れよー。

だるまさんは「アニマルボイスさん推奨のアラビアのロレンスをNHKプレミアムで観た。最初に観た時は歴史的背景が分からなかったのでピンとこなかったが成る程こういうことかと納得した。映画は変わらないが若い時に観るのと今観るのとは感じ方が違う」と。
私はというと冒頭のオートバイで突っ走っていくシーンしか記憶がない(>_<)

なんかだるまさんも野菜作りとか男の料理も始めたようだ。
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「味噌汁に自作のオクラを入れた。昼飯はいただいたピーマンで焼きそばを作る予定。しかし世の中腹の立つことが多いねえ。地べたから物申したい」。

男も絶対に料理を覚えておくべきだとつくずく思う。奥さんを突然亡くした盆栽の友人、色々戸惑っている様でしばらく連絡がない。そろそろ携帯を鳴らしてあげないといけない。

私もちょっとおかしくなっているのか、今頃になって今日の菜園で発見。
昨日も水やりをした所なのだが、一晩で冬瓜がこんなに大きくなっていたとは考えられない。
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また、菜園内でヒマワリを育てていた人に今まで気づかなかったとは。
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20本ほどあったのだが、市民菜園は花の育成も認められている。

さてさて、色々元気をもらったので、気を取り直して踏ん張って行こうと思っている。


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『少年と犬』 [だるま広報]

7月31日、コロナ、コロナで1カ月があっという間に過ぎちゃった感じ。
家人さんの体調も戻った(痛みは変わらない)ので、今夜は鰻丼(私)とひつまぷし。[るんるん]
丑の日だと長蛇の列で交通整理も出るほど店なので、2日前の今日テイクアウト。意外にもテイクアウトがものすごく多かった。
あー[バッド(下向き矢印)]、今日も全国で1557人の過去最高記録を更新、まるで拙ブログの毎日連続更新のようだ。


だるまさんからロクちゃん関連記事が届いたのでお知らせ。
毎回、1300~1400字前後でまとめるだるまさんの筆力は nice! と思う。しかも、今回はあのだるまさんが涙とは驚く。

      『少年と犬』(馳星周著)
                東谷山六兵衛

 馳星周といえばノワール(暗黒)、ピカレスク(悪漢)小説の作家というイメージを持っている。私は『不夜城』というデビュー作一冊しか読んでいない。
 先日、『少年と犬』という小説で第163回直木賞を受賞したというニュースが流れた。デビューして20年以上たって7回目の直木賞候補作だそうである。凡そ馳星周という小説家の題名としてはふさわしくないように思えた。しかしロクという名のトイプードルと一緒に生活する私は逆にこの題名に惹かれて本屋に走った。本屋の「芥川賞・直木賞受賞コーナー」に一冊だけ残っていた。早速手に取ってレジに向かった。レジのお姉さんによるとこれが最後の一冊だそうである。
 本を読むのもタイミングである。元来せっかちな方なので予約してまで読むタイプではない。この本は私に縁があったのだ。
 隣のスタバに入り、コーヒーを飲みながら早速、本を読み始めた。
とある東北地方のコンビニの駐車場で男は首輪をつけただけの痩せた犬を見つけた。犬は涎を垂らしてジッと男を見ている。しかし賢そうで意思の強そうな目をしている。
「腹が減っているのか」
 男は犬に声をかけた。コンビニで買ったパンを手に取り、ちぎって口元に持っていくとひったくる様にがつがつと食べる。
「そうか腹が減っていたのか」
 男は店に戻り、犬用のささ身ジャーキーを買って犬に食わせて車に乗せ、家に連れて帰った。
ここから始まるこの物語は六部構成になっており飼主がその都度変わっていく。
首輪に書いてあった犬の名前は「多聞」、シエパードと和犬の雑種のようである。
最初の飼主は守り神の多聞天からとったものであろう。この第一話には避難所や津波の事も書かれており、多聞は東日本大震災で被災して飼主と離れ離れになった犬であることを暗示させる。元の飼主を探しているのか車に乗っても、いつも南の方角を気にしている。最初に多聞を見つけた男は震災で警備が手薄になった貴金属店を襲撃する窃盗団の車の運転手である。外国人の窃盗団のリーダーとこの運転手は多聞を可愛がるのだが悲劇的な結末を迎える。
読み進んでいくとその都度変わる飼主は孤独と死の匂いがしている。飼主は多聞によって束の間の平穏と安らぎを与えられる。
しかしそのぶん飼主たちの末路は悲劇的である。題名になっている『少年と犬』の最後の飼主の少年を除いては……。
 私は300ページに渡るこの本を一日で読み終えた。私にとっては長編のこの本を一気に読み終えるのは久し振りである。
出だしから馳星周らしいノアール小説のテンポのいい展開であり、一気に読み進めた。5年がかりで多聞が最後に辿り着いたのは熊本。この少年との出会いは初めてではないことが明らかになっていく。
最後に辿り着いたのが熊本とは……。
そして少年との最後の別れの場面では不覚にも涙でメガネが曇り、しばし目を閉じてから読み終えた。
小説を読んで涙が出る感性が、私にもまだ残っていたのか……。
結末は書かずにおこう。是非一読されることをお勧めする。
「人の心を理解し、人に寄り添ってくれる。こんな動物は他にはいない」(第5話「老人と犬」より)。

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ロクちゃん(下)が、久しぶりに友達のコムギさんに会って「あいつも退屈しとるなぁ。ちょっと遊んだろか」と言っていたらしい。
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コロナ禍のなか、間隔を置いて皆が他に寄り添っていくことが大切であることをロクちゃんは理解しているよなディスタンス。

明日(8/1)、ご褒美に約束のおやつをだるまじいさんに渡しておく(『少年と犬』を借りる)から、じいさんに取られないようにね(^。^)y-.。o○
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照ノ富士、経験の差を見せてくれて朝乃山にとっては壁のような存在であったと思う。


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ロクちゃんからの報告 [だるま広報]

7月21日、今朝も暑い、燃えるゴミを出して菜園へ回る。まだ期待できる(したい)ものtだけに水やり。それだけでもひと汗かいて戻ったら、だるまさんちのロクちゃんからの報告。


「朝、散歩に行って来たらめちゃくちゃ暑かったわぁ」
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「熱中症気味だぎゃー」
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「うちへ帰ってきてダウン、冷てゃーもん、飲ませてちょうだい」
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「今日は土用丑の日なので、鰻一切れちょーだいよ」

散歩も行きたいだろうけれど暑さに弱くて大変なところを、よく報告に来てくれた。
wildboarは人間より犬とか猫に、より好かれる傾向があるのだ。
「ロクちゃ~ん ! 今はね、テイクアウトだから待っていても鰻は来ないよ。今度、ジャーキー送っておくからね」。


まだ、朝の10:30なのに今日の東京の感染者230人超の速報が流れる。コロナの最初の頃は夜の発表、最近は午後3:00くらいだった、そして今日は10:30。
最初のころから思っていたのだが、こういうバラつきデータでは適正な判断が揺らぐ。仕切り直しをしてでもデータ取り基準を定めた方がいいと思う。

夕方予約の脊柱専門医で家人さんが受診、前提として「手術の選択はしない」なので、院長の応えは「死ぬわけではないから、慌てず薬の効果が現れるのを待ちましょう」で、あった。
私も経験者として、今以上のアドバイスはもうない。
最後のアドバイスとして、足裏シートを貼ってあげたのだが最初だけは足が軽くなる程度の効果はあるかもしれない。
料理は100%私に移譲かな、掃除はルンバ。
洗濯はー・・・考え中。

院帰りにCBC(TBS系)が愛知の感染者50人超、同じ時間帯にNHKでは40人と言っている。いずれにしても過去最高(2倍)なので私どもも再度の自粛生活に戻るしかない。
19:00、NHKが53人と流した。
あー、後輩との昼呑み、家人さんとの夜の外食、早く行っておくべきだったと強く反省。


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夜の街とは言ってほしくない [だるま広報]

7月19日、やっと晴れたのだがまだ陽が弱い。
ロクちゃんも散歩に行けそうで、飛び上がって喜んでいる。

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今日も全国で486人のコロナ新規感染者、拡大を続けている。
「夜の街」、「夜の街」と何度も言われてきたのだが今や、それだけではない様相。この「夜の街」という表現に私は嫌な感じを持っていたのだが、だるまさんも同じ思いだったようだ。


    コロナ禍は浅川マキ!
                 だるま

 先日、中日新聞夕刊の『このみち』に目を通していたら、今、この欄を担当しているドラマー、つのだひろが浅川マキのことを書いていた。つのだひろはジャズ、ロックその他ジャンルにとらわれず、いろんなグループでドラムをたたき、名曲「メリー・ジェーン」を唄っている。
 浅川マキについては三夜にわたって書いていた。
 その頃、JAZZの渡辺貞夫のグループから抜けた後でこれからどうするか迷っていた時に、浅川マキから声がかかったそうである。浅川マキは私の好きな唄い手であった。
「ちょっと待てよ。俺も浅川マキのレコードは二、三枚持っていたぞ。引っ越しの時に処分していなかったらあるはずだ」さっそくレコード棚のある納戸を探した。
「あった!」ジャケットは少し変色していたがライナーノーツも残っている。タイトルは『MAKI LIVE』(1971年大晦日新宿紀伊国屋ホールで収録)とある。
 レコードに針を落とすと、懐かしい唄が流れてきた。多少の雑音は入っていたがそれはそれで当時の雑然たる時代の雰囲気が感じられて心地よい。
 あらためてライナーノーツに目を通すとジャンルの違うメンバーが作曲したり、詞を書いている。本人の作詞、作曲の曲も沢山ある。シンガーソングライターの走りである。
『にぎわい』(かまやつひろし作曲)、『朝日耬』(朝日のあたる家)日本語訳浅川マキ この詞が実にいい、『赤い橋』(北山修作詞)、『かもめ』(寺山修司作詞)、貸本時代の漫画家真崎守の作詞した『死春期』など錚々たるメンバーである。年越しライブなのでステージと観客の熱気がレコードの傷を効果音としてスピーカーから流れてくる。当時の新宿の雑然たる熱気が感じられる。今流行りの「夜の街関連」、嫌な言葉である。しかし良くも悪しくも新宿である。
 ステージ、ラス前の浅川マキのプレーヤー紹介で最初にドラムスのつのだひろが紹介されている。バックプレイヤーはベース稲葉国光、ピアノ今田勝、サックス市原宏祐などそれぞれ一家をなす有名プレーヤーである。
 今、コロナ禍で、コロナに負けないで夢を持とう、頑張ろう、のような歌がリモートでテレビから流れてくる。
 どうもこの手の歌は私の心に響かず、空回りしてしまう。
 幸せな歌とは縁遠い浅川マキの乾いたブルースの方が私の心に響いてくる。
 2010年、名古屋市内のホテルで急死、最後のステージは「JAZZ INN LOVELY」であった。
 もう10年もたってしまった。

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ロクちゃんも、「爺さん、いいとこあるねえ」と静聴。
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だるまさん !
去年の「MeeNyaとMikakoのX' mas シャンソンショー」、あの中村哲さんがアフガンで銃撃された日、MeeNyaさんが確か「朝日のあたる家」を歌っていたねぇ。あの時、やっぱりこの歌は原語でないと実感が湧かないなぁと思っていた。
浅川マキを聴いてみよう。


追加
「散歩、行きたいなぁ」
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守山そぞろ歩き(9) [だるま広報]

7月2日、東京の感染者100人越え。いつかいくとは思ってはいたのだが、こんなに早いとは思ってなかった。
コロナ自粛で始まっただるまさんの「そぞろ歩き」、お寺巡りから陶芸に移った今回の(9)が最後になるのかと思っていたのだが、自粛復活でまだまだ続くことになりそうな気配がする。


      守山そぞろ歩き⑼
            翠松園 唐九郎の叛骨

                   東谷山六兵衛

この守山区に「翠松園」という洒落た名前の高級住宅街がある。名前の由来どおり街に安らぎを与えるようにいたるところに松が植えられている。この街の一角に「加藤唐九郎記念館」がひっそりと建っている。前を通って気にはなっていたが行かず仕舞いである。
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6月の暑い日、汗だくになって坂道を上った。膝が音を上げ始めている。記念館の場所の目安としていた二つ池まで辿り着き、もう少し坂を上るといよいよ唐九郎記念館である。
欝蒼と生い茂った樹木に覆われた古びた館が現れた。記念館の入り口には陶土で造られた唐九郎の胸像が不愛想に佇んでいる。
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記念館は締まっていたがオレンジ色のクーペが駐車場に止まっている。
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「こんにちは」大声を上げると「すみません。今行きます」入り口が開いた。入館料300円を払って中へ入ると、直径五十センチ以上はあろうかという大皿に鯰が二匹泳いでいる「絵瀬戸鯰文大皿」(大正7年製作)や「絵唐津壺」(昭和19年製作)、「信楽花生」(昭和38年製作)、「伊賀花生」(昭和49年製作)、の大作が眼に飛び込んでくる。鯰の大皿は唐九郎初期の作品であり、唐津、信楽、伊賀の作品は、よその有名な窯の土や陶法を研究し、追求する充実期の作品であろう。
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(絵葉書から)

そして唐九郎を語るには二つの事件に触れなければならない。
昭和8年唐九郎処女出版の『黄瀬戸』に、瀬戸の陶祖といわれる鎌倉時代の加藤藤四郎はいなかったのではないかという藤四郎不在説である。南宋に渡って作陶技術を習得したといわれているが、鎌倉時代に瀬戸の古窯で焼いた形跡がない。多分後世になって茶人が道具に値打ちを付けるために道元禪師と南宋に渡った人物ではないかと結論づけた。これが「陶祖藤四郎抹殺論」とみなされ、藤四郎を祀った神社の前で書を焼かれ、暴漢に襲われ、自宅も焼き討ちにあった。石持て追われるがごとく瀬戸からこの地に移ってきた。

そしてもう一つは有名な「永仁の壺」事件である。昭和18年上志段味村で道路工事中に二つの壺が発見された。この壺には「…永仁二年水埜四郎政春」(鎌倉時代)と刻まれており、昭和34年国の重要文化財に指定された。しかし、中日新聞などに「永仁の壺」贋作キャンペーンが張られ、遂に昭和36年重要文化財指定を取消された。 
その後唐九郎は自分が作って埋めたと申し出て、すべての公職から追放された。
権威を否定し、芸術は一種の革命であると主張する唐九郎がなぜ「永仁の壺」事件を起こしたのかは今もって謎である。重要文化財に対する一種の揶揄だったのであろうか。
作家の山田風太郎はこの事件の後、重要文化財級の作品を作れる男として唐九郎の名声はかえって高くなったと書いている。
以後翠松園に引き籠り、作品作りに没頭している。桃山期の作陶の技法を追求し、志野、織部、黄瀬戸など個性的な作品を生み出したといわれて作品もここに展示してある。

私の訪れた日、客は私一人で唐九郎の身内と思しき女性から「手に取ってみますか」といわれ陳列ケースのカギを開けてくれた。時計を外してケースの中で有名な志野茶碗銘「氷柱」や作家立原正秋が銘名したといわれる晩年の名作「紫匂」がすぐ目の前にある。
唐九郎制作の名器を緊張しながら手に取る。「もっと力を抜いて包み込むようにして持ってください。軽いでしょ」笑いながらアドバイスをしてくれる。立原正秋を気取ってこの茶碗で抹茶を飲む至福の時を想像する。
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(絵葉書から)

「人無心 土有神」唐九郎書
人は心を無にして土の神に向き合うという意味であろうか、唐九郎の書である。

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だるまさん、今度は筆の柄を柄ゴテに替えて奮闘中。
口が細い一輪挿しを目指しているようだ。
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「22センチしか伸びなかった。後一寸が難しい」と、LINEメール。



お昼前からネット鑑賞していた藤井聡太七段の王位戦第1局、午後3時過ぎに整形外科予約があったので家人さんと出かけた。直前の王手で藤井さんの勝ちだなと思っていたのだが午後4時、気になってスマホで見ると、まだ木村王位が凌いでいる。どうも信じられないような盤姿、続いた夕食の買い物帰りに藤井さんの勝ちを知った。
夕食後、棋譜を辿ってみるとさすが受けの木村と云われることが分かった。
それにしても、藤井さんは正に旬だと思う。


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ロクちゃんデビュー [だるま広報]

6月28日朝、雨。
折角LINEをつないだのだからLINEにすればいいのにと思って開いたEメール、添付文書が付いていました。
お馴染みのだるまさんからで、文中の志段味というのは名古屋市守山区の地名です。

「近所のワンコ友達に『志段味八景犬公戯』(しだみばっけいわんこのたわむれ)というエッセイを書いて渡している。季刊で年4回、落語の『地獄八景・・』をもじった題名だが引っ越してきてロクを散歩させる時の名刺代わりに書きだしたものだ。もう5年になる。ワンコの目を通しての社会批評風に書いているつもり。読者がお母さんたちなので怒りを抑えてやさしく書いているつもりだが結構難しい。有難いことに愛読者もいて今回で21号、約50~60部発行している。」

拙ブログに、ロクちゃん(トイプードル)にデビューしていただこうと「写真、送ってよー」と、だるまさんにLINEメールしました。

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昨年末だったか、「私の靴下を何度も咬んで引っ張ってくれて嬉しかったよ、ロクちゃん! 少し太ったかな」。


      志段味八景犬公戯(21)

                  東谷山六兵衛
 
6月の声を聞き、コロナ禍の自粛も解除されました。
自粛期間中の下志段味公園は子供たちとお母さん、お父さんたちで連日満員、遊歩道はマスクをはめた俄かジョガーたちが苦しそうに走っています。公園のフェンスには「ソシアルディスタンス2m」の幕も取り付けられました。外出自粛で行くところがない事はわかりますがこんなに集まって大丈夫かと思う事もありました。
しかし義務教育である学校が再開したことは本当によかったと思います。
外出自粛でワンコと一緒にいる時間が長くなりました。
殆ど一日中ソファや絨毯の上で寝っぱなしですが、よく見ると薄眼を開いてこちらをチラチラ伺っています。外で人の気配がすると、窓際に突進し「ウー ワン ワン」と吠えています。吠えると怖がられると、とんだ勘違いをしているようです。家に人がいると強気で吠えますが、誰もいないとジッとしていてワンとも吠えません。
宅急便のお兄さんが面白いことをいっていました。
「お宅の前を通ってワンちゃんが吠える時は誰かいるが、黙っている時は留守だから分かり易いです」
「おいおい 見透かされているじゃあないか。お前は番犬にはなれないな。食いものの為なら魂も売るんじゃあないか」
「だって犬は飼主に似るっていわれているんだよ。ボクはジイサンに似たんだよ」ちびワンコは不服そうな目でこっちを見ている。
いわれてみれば当たらずいえとも遠からずです。ワンコ達もコロナ禍で生活が変わったようです。「三密」とやらを避けてあまり人のいない所に散歩コースを変えたり、散歩時間を変えたりと、今までのようにワンコ友達に会わなくなりました。
みんなどうしているのだろうか。これからは暑くなるのでコロナウイルスだけではなく熱中症にも注意しなければなりません。
「三密」を避けて「酸欠」になったら洒落にもなりません。
今年の夏は人間にもワンコ達にも厳しい夏になりそうです。
皆さん、お元気で。


特にコロナ以降の世情、魂を売っている人、何人も思い浮かびます。
「ロクちゃん!、また来てよー」


中日が0対7になんてとんでもないことになってしまったので、藤井聡太✕渡辺棋聖戦第2局に切り替えました。
50手目くらいで、藤井さんの持ち時間が極端に少なかったので心配でした。じわりじわりと棋聖を追い詰めて90手で投了させたときは、持ち時間の差はわずか5分であったのは素晴らしい追い込みだったと思います。62~65手目あたりの歩の使い方が私には印象的でした。
中日が負けても藤井さんが楽しませてくれたので、今日もいい日でした。
蛇足ながら、だるまさんの「そぞろ歩き」によく出てくる瀬戸街道は、守山から20分ほどで藤井さんの瀬戸市に繋がる道なんです。


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守山そぞろ歩き(8) [だるま広報]

6月23日未明少し降ったが晴れ、早朝から釣行。
だるまさんは名古屋の北東部方面を眺望し、私はど~んと南下して海を眺める。
釣果については明日の報告として、だるまさんのそぞろ歩きを紹介。


      守山そぞろ歩き⑻
            倶利伽羅不動寺から龍泉寺へ

                            東谷山六兵衛

今年は梅雨入りが早い。おまけに六月だというのにすでに30℃を超える日が続いていている。マスクを付けたそぞろ歩きは「三密」を避けるも「酸欠」で余計に暑苦しい。
梅雨の晴れ間に久し振りにそぞろ歩きに出かけた。三日続きの慈雨に濡れた遊歩道には蝸牛が我がもの顔でシャワーを浴びている。
遊歩道を歩くこと30分、倶利伽羅(くりから)不動寺の山門前に出る。
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この寺は吉根(きっこ 名古屋市守山区←wild注)の西のはずれの龍泉寺街道沿いにあり、バスの窓から眺めて何となく気になっていた寺院である。
艶やかな朱で彩られた本堂や八幡大菩薩が鎮座おわします八角堂は平成末期の建立とあり、一段と目を引く派手な寺院である。
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            (倶利伽羅不動寺の山号額)
この寺の本尊は倶利伽羅不動明王であり、衆生を禍いから救うため黒龍の巻き付いた宝剣を持ち、厄を睨み返している。差し詰めコロナウイルスも睨み返されているのだろう。
本堂の裏手に不動心の滝があり、名古屋唯一の修験道場であるという。ドラゴンズやグランパス選手もオフには滝行に来るそうだ。
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竜神堂の横の急な石段を這うようにして登ると奥の院がある。ここからの北の方を眺めると庄内川を跨いで春日井方面が一望できる。
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かつては百万ドルの夜景といわれていた。
この寺院の東隣に物珍しい造りのチベット佛教寺院(チャンバリン)が聳え立っている。
この寺院については改めて取材し、後日書いてみたいと思う。
寺院を出て七曲り坂を上ると龍泉寺が見えてくる。
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現在の七曲り坂は区画整理によって県道に一体化されユトリートバスが頻繁に走っている。以前はもう少し庄内川添いにあり欝蒼と生い繁った林の間をぐにゃぐにゃ曲がった細い道で物流、交通の難所であった。
したがって志段味の人達の生活は守山よりも春日井、尾張旭との結びつきが強く、往来も盛んであったようである。
龍泉寺は山号を松洞山と号し、区内では数少ない天台宗の寺である。尾張四観音の一つで本尊は馬頭観音である。
馬頭観音は伝教大師(最澄)が竜神のお告げを受け、龍の住む多々羅池(龍泉寺の北、現在の霊苑の辺りか)のほとりでお経を唱えると、龍が天に上ると同時に馬頭観音が現れたという。龍泉寺という名の所以である。
竜泉寺にも古くからの言い伝えがある。
承久の乱(1221)で後鳥羽上皇側について戦った山田郡の右(う)馬(まの)允(じょう)明長(あきなが)が重傷を負い、下津河(稲沢市下津)で北条側に捕らえられそうになり、思い余って自害をしようとすると幻の中で若い僧が「竜泉寺から来た。助けてやるから死ぬな」といった。その後捉えられて首を討たれそうになったが一心に念仏を唱えて助かったという(沙石集名古屋市教育委員会)。他の寺の言い伝えにもあるように山田郡の豪族たちは承久の乱に参戦し、負け戦の辛酸を舐めたと記録にある。
さらに小牧長久手の戦いでは龍泉寺城(当時)に布陣した秀吉は小幡城に布陣した家康と対峙したが家康は小牧城に引き上げ、講和を結び以後戦うことはなかった。
ここには円空仏が沢山保存されている。
庄内川を眺める霊苑を巡っていると偶然、お世話のなったNさん夫妻建立の「N家の墓」を見つけた。Nさんはご健在なのだろうか。
重く垂れこめた空から大粒の雨が降ってきた。暑苦しくも楽しいそぞろ歩きであった。


ドラゴンズの選手が滝行をしていたとは知らなかった。


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信楽の土 [だるま広報]

6月22日曇り、今朝も元気に菜園行き。
この菜園の付近のお家は、花を楽しんでいらっしゃる人が多い。時々、挨拶をする人なのでちょっと撮らせていただいた。

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友人のだるまさんからメールが来た。
「信楽の土で久しぶりに花瓶を作った。腕のせいか信楽の荒くて固い土のためか、うまく伸びません。そぞろ歩き龍泉寺編を書いているので送ります。」と、云うもの。

ロクロ成形の動画だったのだが、顔にモザイクがかけられないので分割した。
下から上へ引き上げるのだが、このサイズだと私では最高でも16㎝ほどしか上げられない。
だるまさんは鶴首だって作る人なのだから、ざらざらした土肌が特徴の信楽なので難しいのだろうか。コロナブランクもあったしね。

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この柄ゴテが私には使えない(>_<)
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まだ伸びたと思うのだが、動画はここで停まっていた。

焼きあがったらこの花入れにクラスメートだったさゑねえさんが活けてくれるのかな?
明日は、また名古屋市守山区の歴史の勉強をさせてもらおう。


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文七元結(ぶんしちもっとい) [だるま広報]

6月7日、競馬趣味はなくても今日はLIVEで見なくては、と見たらアーモンドアイの記録はならなかった。

だるまさんから、古今亭志ん朝の「文七元結」のCDが届いていたので聴いたところ、野風さんが出てきそうな気配がしたので静聴した。以前、だるまさんが同人誌「山波」に書いていたことを思い出し、原稿を送ってくれるように依頼したら、わざわざ加筆修正したうえ、自粛が解かれた陶芸教室で作陶中のだるまさんの顔写真がひっ付いてきた。
「アップしてよいか」と訊いたら、「どうせマスクと禿げ頭だから、モザイクはかけなくていい」とメールにあったので、遠慮なく。
休憩も必要だろうと、真ん中あたりに挿入することにした。



     文 七 元 結
       遅咲き名人十一代 金原亭馬生

                      東谷山六兵衛

「お見逸(みそ)れしやした。馬生師匠!」
思わず叫びたくなった。
十一代目金原亭馬生『文七元結』を、リニューアルした大須演芸場の師走定席寄席で聴いた。
この噺は三遊亭圓朝作の江戸人情噺である。
多くの噺家がこの噺を語るが、この噺を語るには噺家としての品格と年輪を重ねる必要があるだろう。
先代金原亭馬生のファンであった私はこの大名跡を襲名した当代馬生の噺を楽しみにしていた。
大須演芸場での『文七元結』といえば、古今亭志ん朝の伝説となっている高座がある。私もCDで聴いたが、この噺の最後の場面で立見席もでる満員の客席のあちこちから、啜り泣きが聞えたという。観客の心を噺の中に引きずり込んでしまった志ん朝という噺家の力量にはあらためて凄みを感ぜざるを得ない。

この噺の主人公、左官の長兵衛は本所だるま横丁の貧乏長屋に女房とお久という十七歳になる一人娘と住んでいる。いい腕を持ちながら、博奕三昧、家財道具や着物まで売り払い、年も越せない有り様である。
ある夜博奕に負けてスッカラカン、着物までも博奕の形に取られて法被一枚で帰ってくる。
「お前さん、また負けたんだろ。どうするんだい。年を越せないじゃあないか・・・。それより大変だよ。お久がいないんだよ。長屋の連中も皆で探したんだが見つからないんだよ。お前さんの博奕狂いで家の中は真っ暗だよ。それで家出したんだよ。お久は。大川にでも身投げしたら、私やこの家を出ていくよ。・・・」
今夜もお決まりの派手な夫婦喧嘩の真っ最中。
そこへ「御免下さいまし」と吉原の遊郭 佐野槌の使いの者が来る。佐野槌は吉原でも名うての大店(おおだな)である。
「お取込み中すみません。お久さんがうちに来ています。ついてはすぐに長兵衛さんにうちに来るように、と女将さんから言付かって参りました」
「そうか、お久は佐野槌にいるのか、しかしなぜ佐野槌になんか……」お久が生きているとわかりホッとした長兵衛は、女房の着物を奪うように羽織って、這う這うの体で佐野槌に駆けつける。佐野槌に上がり込むと、女将の横でお久は、めそめそ泣いている。
「どこへ行ってたんだ、この馬鹿野郎! おっ母も心配しているぞ。すぐ帰るんだ」
お久を叱りつけ、無理やり連れて帰ろうとする長兵衛に、女将は「そんなことをいうと罰が当たるよ。この娘はねえ、自分から身を売って、お前の借金を返そうとしたんだ。今時こんな事をいう娘はいないよ。こんないい娘を持ちながら、博奕をやめられないんじゃ駄目じゃあないか。借金はいくらあるんだい」
「へい、五十両ほど」
「五十両貸そう。そして一年後の大晦日迄に返しておくれ。それまではこの娘を預かって女一通りの事は身につけさせよう。その代り期限が一日でも過ぎたら、私は鬼になるよ。女郎として店に出すよ・・・」
「ありがとうごぜえます。お久待ってろよ。皆さんに可愛がられるんだぞ。お父つぁんは博奕をやめる。きっと迎えにくるからな」
女将にきつく諭された長兵衛、その五十両を押し頂いて帰る途中の吾妻橋で、身投げをしようとしている若い男に出会す。
「おい、ちょっと待て。早まるんじゃあねえ」
わけを聞いてみると、水戸様の処で集金した五十両を掏(す)られたという。このままではお店(おたな)に帰れないので死ぬといって聞かない。
思い余った長兵衛はこの若い男に「死ぬな。死んだらお終いだ.。早まるんじゃあねえ」と、いい聞かせて、身投げを思いとどまらせる。
「この五十両は、17歳になるお久っていう一人娘が身を売ってこしらえた金だ。佐野槌の女将が情け深い人で、1年待ってやるがそのかわりその五十両を来年の大晦日迄に返さないと娘は女郎になる。この五十両をお前にやると、都合百両。とても返せねえ。せめて神様に娘が悪い病に罹らねえように、かたわにならねえように、毎日拝んでくれ。そのかわり死ぬな。娘は女郎になるだけだが死んじゃあおしめえだ。」
その五十両を叩きつけるように若い男に渡して長兵衛は立ち去る。
この噺のクライマックスである。
長兵衛のような男の事を評論家矢野誠一は「破滅型善人」という。医学的には循環気質と呼ばれ、躁うつ病とは隣り合わせだという説もあるそうである。
娘と女房に対する申し訳のなさと、死ぬという若い男を助けねばならないという侠(おとこ)っ気が絡み合う江戸っ子気質の長兵衛の胸の内を、馬生は抑えた口調で淡々と語る。余談ながらこの場面での五十両は咄嗟に出して、叩きつけるように渡せと師匠から教わったという。その思い切りが噺の切れというものだそうである。
五十両を受け取った若い男は、日本橋にあるべっ甲問屋近江屋卯兵衛の店の文七という手代である。
夜遅くに店に戻った文七は、すでに五十両が水戸屋敷から届けられていることを知る。掏られたというのは勘違いで、碁に夢中になった文七が碁盤の下に忘れてきたのだ。
「取り返しのつかない事をしてしまった。お久さんが女郎になる」慌てた文七、主人卯兵衛にこの五十両を貰ったいきさつを半泣きになって話す。
話を聞いた卯兵衛は「一人娘を売った大事な五十両を、見ず知らずの者に与えるような男がこの世にいたのか」と感心するやら、あきれるやら。
翌朝、卯兵衛は文七を連れて夫婦喧嘩真っ最中のだるま長屋を訪れ、五十両を返し、「あなた様のような人間は、我々商人仲間にはいない。是非、親戚付き合いを」と文七の後見人になることを長兵衛に頼む。
そしてお礼にと角樽二升と酒の肴を届けさせる。
「ありがてえ、酒は戴くが肴はいらねえ」
「まあそういわずに」と送られた肴を見てびっくり。


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やっぱりアップするものの良識としてモザイクをかけた。メールに付いていた説明は、「土は3月に仕入れた信楽の土です。3カ月たっていたので固すぎるかと思いましたが何とか使えました。見た通り黒っぽい土ですが焼くと白くなります。」
だるまさんは、そぞろ歩きから陶芸に転じたようだが、「そぞろ歩き」の続篇も待っている。

送られた肴は駕篭に乗って、きれいに着飾ったお久であった。
卯兵衛がお久を見受けし、酒の肴として長兵衛夫婦の元に返したのである。
お久はまず、真っ先におっ母さんを探し出し、抱き合って喜ぶ。そして大団円。
この場面が件の大須演芸場啜り泣きの場である。
後に文七は、お久と夫婦になって麹町貝坂に元結屋を開き、たいそう繁盛したという。
この人情噺を、名人と言われる噺家たちが皆、自分の噺として味付けし、語り繋いできた。
何回聞いても泣ける噺である。先代に似て当代馬生も粋な江戸前の噺家であるが終わった後、座席で余韻に浸っていたくなった。「お見逸(みそ)れしやした。馬生師匠!」である。
この噺、登場人物が皆、真っ正直であり、粋である。
博奕好きの破滅的人間として登場する長兵衛は、娘が身売りして作った金を、大川に身投げしようとした見ず知らずの男に与え、娘のお久は博奕狂いの父親の借金を返すために身売りまでしようとする。
そして、どういうわけか名前が出てこない長兵衛の女房は、なさぬ仲の先妻の娘のお久を、実の娘以上に可愛がる。お久もまた実の母親のように慕っている。
佐野槌の女将も近江屋卯兵衛も、世間を知り尽くした人間の矜持と粋がある。佐野槌の女将のポンと五十両出す場面で、期限までは女一通りのことは身に着けさせるが一日でも期限を破ったら鬼になって客を取らせるという台詞は、遊郭の女将ならではの凄みがある。今でいうギャンブル依存症の長兵衛さんもその迫力に圧倒されたのだろう。
この噺を十一代金原亭馬生で聴くのは初めてである。
十代目馬生が偉大だったため、この金看板を継ぐのを一門の先輩、金原亭伯楽や五街道雲助は敬遠したという。
結局、当時の金原亭馬治にお鉢が回ってきた。
平成11年、先代馬生の十七回忌に志ん朝の肝入りで十一代金原亭馬生を襲名する。
芸事の世界で金看板を引き継ぐ者は先代と比べられ、先代との戦いであるとはよく言われる言葉である。
馬生は昭和22年東京銀座生まれの商家の若旦那であり、生粋の江戸っ子である。
馬生は、同世代の今を時めく、志の輔、市馬、権太楼、さん喬、五街道雲助らと比べると地味である。
「この落語家に注目」風の本にもあまり、取り上げられない。すぐ下の世代には、市馬、喬太郎、菊之丞、白酒などが控えている。
この若旦那は見習い時代に、先代から一度クビになっているという。寄席の数が減り、演じる場所も少なくなり、前座があふれていた時代である。
3年後、兄弟子五街道雲助の口利きで復帰するも、師匠の先代馬生が早すぎる死を迎える。
その後、先代の一番弟子金原亭伯楽の弟子になり、前座、二つ目と昇進するが、今ほどホール落語もない時代であまり声が掛からず、修行の場も少なかったという。
馬生一門のおおらかな弟子の育て方のせいか、銀座木挽町の若旦那のせいか「俺が、俺が」という無粋な生き方ができなかったのであろう。
波乱万丈、苦労人でもある。 
余談ながら昭和22年丁亥(ひのとい)生まれの私と同い年である。もっと上かと思っていたが……。
本日演じた左官屋長兵衛も、他の噺家に比べおっとりしている。これでは博奕に負けても致し方ないか・・・。
先代馬生も話に品格があった。
馬生は長年、高座舞(註一)でかっぽれを踊り、鹿芝居(註二)で二枚目切られ与三郎を演じ、芸域を広げているという。
10年前から取り組んでいるという圓朝噺(註三)も円熟した話芸で、是非聴いてみたいものである。
噺家としては整った顔立ちの、今の馬生の江戸の匂いのする落語は、先代の足元にやっと及んだのであろう。
「世の中スイスイ お茶づけサラサラ。何でもいいんだよ 何でも。世の中もっと面白いものなんだ。でもどうでもいいんじゃあないんだよ。」
先代馬生の口癖であったそうだ。
噺家は60代から円熟期を迎えるという。
遅咲きの十月桜にも似た、十一代目金原亭馬生の渋い芸に出会える日を楽しみにしている。。


参考文献 
『落語家の値打ち 十一代金原亭馬生 』うなぎ書房
『落語を歩く 鑑賞三十一話』矢野誠一 河出文庫
『落語への招待二・三 別冊歴史読本 新人物往来社

註一 高座踊り 定席寄席でトリの落語の後の余興の踊りの事。落語家は踊り、都都逸、義太夫、歌舞伎などに通じており、それらの芸事が噺の肥しになっている。古今亭志ん朝の「住吉踊り」が有名である。

註二 鹿芝居 噺家(ハナシカ)からハナを取って漢字で鹿(シカ)とした。噺家で演じる芝居。歌舞伎や落語の演目を演ずる。歌舞伎の「与話情浮名横櫛 源冶店」(お富与三郎)などを題材にした鹿芝居が国立演芸場、上野鈴本演芸場で演じられている。 
 
註三 圓朝噺 江戸末期から明治の落語家三遊亭圓朝が作ったといわれる人情噺や怪談噺である。
人情噺に「文七元結」「黄金餅」「塩原多助一代記」
怪談話に「牡丹灯籠」「真景累ケ淵」などがある。正岡子規も圓朝を聴きによく寄席に来たという。


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お後がよろしいようで。


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守山そぞろ歩き(7)小幡篇② [だるま広報]

5月29日、奥様を突然に亡くされた盆栽の友人(5歳年上)の告別式、夜のニュースでオンライン葬儀なるものがあることを知って少し驚いた。
昨日は通夜式の3時間前に式場で弔問した。何だか友人が一回り小さくなってしまったように見えたのだが、こういうのはオンラインでは伝わらないだろう。


友人のだるまさん(同い年)が、②を送ってくれているので私も助かる。
早速、続編。

       守山そぞろ歩き⑺小幡篇②
             歴史の町を歩く       東谷山六兵衛

 この辺りを歩き、寺の人などの話を聞くと鎌倉時代から江戸時代にかけての興味深い歴史の町であることがわかる。歴史好きの六兵衛にとって興味深いそぞろ歩きになっている。
不要不急ではないがこの程度の楽しみは許してもらえるだろう。
 さて小幡城址から瀬戸街道方面に下り、瓢箪山の駅の南の住宅地、廿軒家(にじゅっけんや)に向かう。
 樹木が生い茂り、欝蒼とした一角がみえる。地元の人が松蔭(まつかげ)庵と呼ぶ旧尼寺である。
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 門が締まっていたが庭の手入れをしていたおじさんに中に入れてもらうと昼なお昏(くら)く、苔むしった庭の一角に茅葺屋根の庵がひっそり建っており、鳥の囀りも聞こえてくる。
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 庵の左右に丸い塚があり、隅に「如々院月中一夢法師」と刻まれた石柱が建っている。
 ここは以前、尼寺であったが今の庵主は男性だそうである。江戸時代の後期、熱田の貧しい農家の女に金毘羅大権現が天下り、如来の教えを説き始めた。如来の前では人間すべて平等である、という如来教の教えは貧しい農民、下級武士の心をつかんだ。なぜこの地に庵が建立されたのか、詳しい資料がないが本山は熱田区籏屋にある青大慈寺である、と庭番のおじさんが教えてくれた。
 西へ歩くこと15分、矢田川橋を渡ると右に公園が見える。ここは東区である。この公園もマスクをした若いお母さんと子供の黄色い声が聞こえてくる。保育園、小学校の休校で何処も公園は満員である。すべり台は黄色いテープで使用禁止の表示がしてある。脇を通ってしばらく歩くと石段の下に「無住國師入定地」「靈鷲(りょうじゅ)山長母禪寺」と刻まれた石柱が建っている。明和4年(1767)の大洪水で矢田川がこの寺の南側を突き破り流れを変えて、北側を流れるようになった。この大洪水では守山村の25%が水没し、死者も2千人を越えたという。当時でいえば伊勢湾台風なみの被害を被ったのであったろう。
 守山村から長母寺だけが切り離されることになり、今では東区木が崎になっている。
 ゆるやかな石段を登ると長母寺由来(名古屋市教育委員会)が建っている。
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前述長慶寺に縁のある寺である。
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創建したのは山田重忠であり、その後荒廃していたが弘長3年(1263)山田道園坊が母親の慰霊のために再建し、天台宗から臨済宗に改宗し、無住国師を開山とした。その後尾張二代藩主光友の命により再興されたと記されている。この殿様の名前は大森寺の由来でも出会った。きっと信仰に厚い名君だったのであろう。
 さらにこの寺の開山無住国師が尾張万歳を広めたといわれている。しかつめらしい説教よりも万歳が村民の心を捉えたのであろう。
寺宝の無住国師坐像は10月10日に行われる開山忌に公開されるそうだが写真で見る坐像の表情は穏やかに微笑んでいるように見える。
きっと村民を慈しむ親しみやすい坊様であったことであろう。
 本堂の左手に熱田社が祀られている。熱田神宮とこの寺の関係は深いとされており、国師在任中は熱田の神が毎月朔日(ついたち)に参禅に訪れたという謂れがある。熱田神宮から霊宝として「八重つつじ」が贈られた。このつつじは寺宝だといわれ、この枝を折った牢人が狂い死にしたという話も伝わっているそうだ。
 つつじは開山堂の前の「さざれ石」の横に植えられ、赤い花が満開であった。
 寺を出て公園の裏手から矢田川の堤防に登る。対岸には守山の宝勝寺の森が見える。この辺りが流れの変わった場所だったのだろう。
 自然の力には驚愕するばかりである。 了


だるまさんとは高校時代は全く知らない間柄だった。退職後に初めて参加した同高卒の親しい友人らの飲み会で、「陶芸をやっています」と、初参加の私が挨拶したところだるまさんが「オレもやっているのだ」と話しかけてくれた。それがお付き合いの始まりであった。
文中の松蔭庵と呼ぶ旧尼寺あたりで、詠んだとも思われるだるまさんの句。
昼昏き尼庵にほらり黒揚羽

に、家人さんが「らくだ句会」第150回の特選句として選んでいる(誰の句かは分からない状態)ので、こうなると腐れ縁(笑)なのかもしれない。

盆栽の友人は、だるまさんよりも後からのお付き合い、小さく見えてしまったその友人に、「落ち着いたら連絡をしてください」と、声をかけて告別式場を後にした。  合掌


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守山そぞろ歩き(6)小幡篇① [だるま広報]

5月28日、朝からとても忙しかった。全部書いてたら切りがないので、一つだけ。
先週、採った血液検査の結果を「お忘れ院長」のクリニックへ訊きに行った。受付ではその旨をちゃんと伝えたのに、診察室に入ったら「何のために来たのだ」と言われ、「血液検査の結果を訊きに」と。
いきなり「血液検査の結果など1カ月後でいい、中性脂肪が349くらい問題ない」と言われ、「院長! 私に喧嘩売っているのぉ?」と言い返す。今回の検査項目は26項目あるのだが、この人、自分で検査をすると言っておいて、「しっかりしてよ」と言いたかったときは、席を立ってしまっていた。
このクリニックもかかりつけ医、失格の烙印を押して、市役所へ手を打った。例によって「県へと」たらい回しである。
色々動きまわっていた時、車のTV音で聞いたのだが大村知事が何かマズイことを言った様子、次に聞いた時はどうも大村知事の分が悪いようだった。


だるまさんも冒頭、大村知事と河村市長の問題に触れている。
愛知はどうも心配である。

     守山そぞろ歩き⑹小幡篇①
         歴史の町を歩く       東谷山六兵衛

 コロナウイルスの愛知県緊急事態宣言解除の翌日、「守山そぞろ歩き」を再開した。
 解除に関しても愛知県と名古屋市はどうも足並みが揃わない。県知事と市長は事あるごとにいがみ合っているように私は感じる。
「今はそんなこといっている場合じゃあねぇだろう、誰の為の政り事をやっているんだ」と、まあ呆れながらそぞろ歩きを始めた。
 守山区役所の西の辻に真新しい道標(みちしるべ)が建っている。「ここ小幡は江戸時代は北へは龍泉寺街道が南には笠寺街道が伸びており守山の地理的な中心であり、尾張四観音の笠寺と龍泉寺を結ぶ拠点である」と標されている。
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 そしてこの道は鳴海、星崎で採れた塩を足助方面に運ぶ「塩の道」としても利用された産業用の街道でもあったようである。昭和区に塩付という地名があるがそこを通って運ばれてきたのだろう。小幡は瀬戸街道に沿って名鉄電車も走っており、区役所、小劇場もある昔から守山区の中心的な街であった。
 区役所で配布されている『まちあるきマップ』に添って北に5分ほど歩くと長慶寺の山門が見えてくる。この栄松山と号する臨済宗の寺院は昔この地方の領主山田重忠が父母と兄の冥福を祈って長父寺、長母寺、長兄寺の三寺を建てたが長父寺は廃れ、長母寺と長兄寺は残った。その後「長兄寺」は「長慶寺」と改められた。寺伝によると時が過ぎ荒廃した長慶寺を山田正親(重忠の孫)が兄兼続の菩提を弔うため、慶長年間{1249~56}に南山士雲を開山として創設したとある。
 正親、兼続兄弟の父重継は承久の乱(1221)で朝廷方につき討死したが当時14歳だった長男兼続が佐渡に流され、7年後に許されて山田庄に帰った。その後出家したが若くして亡くなった。開山南山士雲とは鎌倉建長寺、京都東福寺の管主を務めた名僧だそうである。本堂の西側にその南山士雲の墓といわれる威厳のある無縫塔が佇んでいる。
承久の乱という朝廷と武家の歴史的な争いに係わった人物を弔った寺がこの地にあることに歴史の重みを感じざるを得ない。
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 境内で作業をしていたこの寺の縁者らしい若者にその話をすると「全く知りませんでした。承久の乱は日本史の授業で聞いたことはあるけどそんな由緒ある寺だとは…。重みを感じプレッシャーになります」
 山門を出て少し歩くと生玉神社があり、この辺りの人達には「生玉さん」と呼ばれて親しまれている。本殿の両脇には「福きつね」と刻まれたかわいらしい狐が鎮座おわします。
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欝蒼とした木立の中に奥の院がある。ここの狐は社を守るようにキッとこちらを睨みつけているようだ。
 生玉さんを出て坂を下っていくと西城の高台に小幡城址がある。
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 小幡城は小牧長久手の戦いで家康が陣を張っていた重要な拠点であった。秀吉と信長の次男、信雄・家康連合軍が信長の跡目を争った戦いである。(詳細は前号参照)犬山城に陣を張る秀吉軍に対し家康は小牧城に陣を張っていた。秀吉軍の武将池田信輝は家康を小牧城に足止めしておき、その間に岡崎を攻略する作戦に出た。小幡城主本多広孝(家康方)はそれを察知し、家康とともに背後から襲い掛かり、白山林(今の本地が原・尾張旭辺り)で勝利した。小幡城は重要な拠点であった。この戦は決着がつかなかったが、秀吉は家康に一目置き、以後家康とは戦っていない。
 ここも今では駐車場に変わり、わずかに名古屋市教育委員会の説明板があるだけである。もはや古城址の趣はない。   以下続く


世界史より日本史の方を好んでいた私なのだが、だるまさんのようにもっと勉強をしておくべきだった強く反省している。

先日、愛知県がコロナの感染者名簿をホームページに漏らしてしまったことについて、漏らされた人たちに賠償金を支払うらしい。それくらいやってはいけな大きなミスだったと思う。
特別定額給付金申請について、当市でも窓口対応がマズイと言う声が聞こえてきた。市民の中には「書留」で送付している人もいるらしい。



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陶芸と絵 [だるま広報]

5月23日、行ってきました「腹が立ったら石を見よ」の喫茶店、このブログに「石見の喫茶店」として何度も紹介していた店です。ムカついた時に、この店の備前の花瓶と活けられた日本の花、そして中庭の丸い水石を観て珈琲とともに心を鎮めています。
シニア対策工事とコロナ自粛で控えていたのですが、昨日の医療問題を引きずっていたことと、コロナ自粛を解いても良いのかのなと、行ったわけです。

えっー、何でこの花?
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カウンターのマスターも、マスク顔の私に気づきません。
訊くと、コロナ影響で旬の花の入荷が難しく、生け花の先生も来れないみたいです。
で、私が見る限りにおいて、この店風にはなっていない形だけの生け花のようです。



だるまさんから届いていた「陶芸と絵」の写真メールが、どうも私との相性が悪かったようでアップが遅れてしまいました。
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「二人展 プラスワン」で2人の画家と「陶芸と絵」のだるまさんが、春日井市(愛知県)で毎年、この展示会を開いています。これは中日新聞(東京新聞の本社)で紹介された時の作品です。

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だるまさんは40㎝の大皿が作れるうえに、絵は洋風を描きます。私はせいぜい20㎝皿しか作れず、絵は和風しかできません。

だるまさんの多芸多趣味には感服しています。
1枚目の写真、右下の湯飲み茶わんは自画像のように思います。
今日はだるまさんがメールしてくれた「らくだ句会」の今月のメール投句61句から、家人さんとともにから各5句を選句しました。来月からは句会場も開かれるようですが、メール投稿が許されるようならば投句してみたいと、家人さんが言っています。家人さんがするのであれば私も作句で、また悩んでみたいと思うのですが、浄爺さんらが許可してくれるでしょうか?


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守山そぞろ歩き⑸ [だるま広報]

5月16日雨、寒蘭4鉢を植え替えようと「さつまつち」も準備してあるのに、まだできないままに1か月も経過してしまった。今日は午後2時から5時まで再放送の「仁」を観なくてはいけないので、朝から昼・夕食のレシピを考えてテレビ鑑賞に備えた。
昼は焼きそば、夕は
1、先日釣った小魚(メバル・カサゴ、アイナメ)の煮つけ
2、鶏手羽元の塩焼き
3、昨日収穫したズッキーニとトマトのマリネ、タマネギも投入しよう
4、そら豆の塩ゆで
と、考えたので安心。
明日0時アップの本ブログについては、幸いなことに友人のだるまさんから散策の文章と写真が届いているので、午前中に予約投稿。
寒蘭はまたしても順送り。



      守山そぞろ歩き⑸  
         大永寺の大屋根狛犬の謎
      
                 東谷山六兵衛

 ゆとりーとライン「川宮駅」で下車する。
この駅で下車するのはいつも「アサヒビール工場見学」の時である。この工場見学は広い工場内をガイドさんのビール製造の説明を聞き、約40分かけて見学する。残りの20分で出来立ての生ビールを3杯まで試飲できるというまことに嬉しいイベントである。
 一緒に行く連中はビール造りよりは最後の試飲を楽しみにしている。20分でビール3杯飲むのは酔いが回るが、製造元で飲むビールは喉ごしもよく暑い時など特に美味い。
 このビール工場見学イベントもコロナウイルスの影響で中止になってしまった。
 話は仰(のっ)けから脇にそれてしまったが、いつもとは反対の出口から外に出て、5分ほど歩くとこんもりとした森と本堂と思しき大屋根が眼に入ってくる。墓地を覆い隠すように道路側に長い塀が連なっている。正面に回ると比較的新しいが威厳のある「曹洞宗寿昌山大永寺」と刻まれた門柱が立っている。山門の上は二階家風に作られており、境内の説明によると鐘楼門寿昌閣と呼ぶらしい。そういえばこの寺の境内にある鐘楼堂には吊り鐘がなかった。多くの寺がそうであったように戦争中国に徴用され、武器に変わったのであろう。
実に罰当たりな事をしたものである。
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『守山区の歴史』(愛知県郷土資料刊行会編)によると大永寺は建久元年(1190)に創建された寿昌院という天台宗の寺であった。
 度重なる戦乱で寺は消滅したが、地元で勢力を持っていた山田一族が大永元年(1521)丹波の国より柏悦道根師を開山として招き、曹洞宗に改宗し、寿昌院大永寺と号した。
 戦国時代は小幡にあったらしい。小幡城主は山田一族の末裔にあたる岡田家であった。
岡田家は代々織田家に仕え、岡田重孝は本能寺の変以降、信長の弟信雄(のぶかつ)の家老になる。
 しかしここから岡田家の運命が狂い始める。
 清洲会議で秀吉と信長の跡目を争った織田信雄(『映画清須会議』では妻夫木聰が演じる)は家老岡田重孝が秀吉に内通したという疑いを掛け、長島城内で謀殺する。これを切掛けに信雄は徳川家康と手を組み、秀吉と戦った。世にいう小牧・長久手の戦いである。
 長久手への通り道にあたるこの辺りも当然戦場になり、大永寺も戦火に焼かれた。
 時移り、加藤清正に仕え、岡田家を再興させた重孝の弟善同(よしあつ)は尾張藩初代藩主徳川義直公より現在の地を拝領し、大永寺を再興した。
 本堂の裏手に墓地があり、一画に重善、善同の五輪塔と歴代岡田一族の墓が並んでいる。
 しかし信雄に裏切り者の汚名を着せられ、長島城で謀殺された重孝の墓はこの寺の何処にも見当たらない。岡田家の家史からも抹殺されているのだろうか。信雄という愚鈍な上司に仕えた重孝は哀れである。
 墓地の入り口に並ぶ墓石に目をやると陸軍上等兵誰々居士、伍長誰々居士と刻まれている。没年はいずれも昭和二十年前半、沖縄、硫黄島、比に於いての戦死、戦病死とある。それ程軍隊内で位の高くない村の人達である。
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 もう半年早く戦争が終わっていれば彼らは死なずに済んだことだろう。胸が痛くなる。
 境内で「東司あちら」という矢印を示した案内板を見つけた。禅寺では厠の事を東司(とうす)というらしい。用を足してふと下を見ると黒猫が日差しを浴びて昼寝している。
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本堂の大屋根には金の鯱(しゃち)ならぬ狛犬?が逆立ちしたような格好で境内を眺めている。逆立ち狛犬の由来について是非住職にお伺いしたいと思う。
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 コロナが終わったらまた来るとしよう。



名古屋市守山区の歴史を辿るだるまさんのそぞろ歩き、改めて勉強させてもらっているのだが、今回は、試飲できる生ビールが一杯何ccあるのだろうかと、そちらが気になって仕方がない(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾?

昨日、市役所へ出かける所用があって裏手の農協で、ついピンクの「アジサイ」に手を伸ばしてしまった。朝からしとしと降っていたのだが、やっぱり園芸品種はしっくりとこない。

だが3時間も心にジーンとくる名作を涙とともに観ていたら、窓外のアジサイもしっとりといい感じに見えてきたので不思議。
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明日は、最終回なので「そこまで言って委員会」より「仁」を優先する。こんなに素晴らしいのは数年前に観た「99年の愛」以来だ。


予定のレシピは家人さんの応援を得てチャラチャラと作って、いただきながら善場さんのTBS報道特集を観る。検察官定年延長問題で江田五月さんや堀田力さんも当然に反対コメントをしていた。稲葉さんとか昔の法相はしっかりしていたなぁと懐かしい。



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『ワルツ・フォー・デビイ』 [だるま広報]

5月12日、今年初めての釣行、予報では風も弱かったしコロナ自粛も穏やかに解いているので、昨日いつものエサ屋に「通常営業していますか?」と確認して出かけた。
朝5時出発、水やりをしないと野菜苗が萎れるので午後3時菜園へ直行。家の水やりは家人さんに頼んであり、帰宅して魚をさばく。一杯飲んで疲れてしまっているので、今日頂いた皆様のコメントへのリプライができなくてお詫び(します)。
今日の原稿については、友人のだるまさんがフォローしてくれて感謝。
釣果については、明日まとめることにしたい。


だるま(東谷山六兵衛)さんから、メールが届いていた。
「LPレコードを聴いている。エッセイ送る。ジャケット写真は明日送る。さだまさしの『風に立つライオン基金』ができた。すこしだが今日寄付した」と、いうもの。 
昨秋も尾張旭市(愛知県)でシャンソン歌手渡辺美嘉子さんの「風に立つライオン」を聴いて、彼は会場で寄付をしている。私も『風に立つライオン』(幻冬舎)を読み、もちろん歌も大好きなので一度は寄付をしなくては。


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     『ワルツ・フォー・デビイ』ビルエバンス・トリオ
           嗚呼!わが青春のワルツ 
                     
                     東谷山六兵衛
 
 5月の連休明けにコロナ禍の非常事態宣言が解除になるかと思ったら、又候(またぞろ)5月末まで延長である。
 大阪府知事が根拠が示されていない、と噛みついたがこれに関しては一理あると思う。専門家会議があるのだから医学の専門家としての忌憚のない見解を示すべきだと思う。変に政治に阿(おもね)っているように見えてならなてい。
 テレビでも多くの医学専門家やコメンテーターがいろんな意見を述べているが、素人の私にはさっぱりわからない。要するに世界的に遅れているPCR検査をもっと増やすこと、治療薬としてアビガン、レムデシビルを許可すること、コロナワクチンを早急に開発することと理解していればいいのではないか。

 暇にまかせて、納戸からLPレコードを引っ張り出して久し振りにレコードに針を落とした。
 懐かしいピアノの演奏が雑音入りで流れてくる。
 ピアニスト ビル・エバンストリオの「ワルツ・フォー・デビィ」。エバンスの可愛い姪っ子のデビィの為に作曲されたワルツの曲である。
 エバンスのピアノが愛らしいこの曲を、繊細なタッチでゆったりと弾き始める。ビルのテーマのメロディの後に名ドラマー ポール・モチアンのブラッシングが心地よいリズムを刻む。そして伝説のベーシスト、スコット・ラファロの「ダ・ダ・ダ・ダ・ バリ・バリ・バリ」と私には聴こえるソロが続く。ベースソロをドラムとピアノが控えめにサポートし、ビルのピアノがテーマをリフレインして曲が終わる。曲の合間に観客の拍手と話し声が入っており、酒と煙草の煙が立ち込めたニューヨークジャズクラブ「ビレッジ・バンガード」の店の空気が眼に浮かぶ。
 このレコードは約五十年前の学生時代になけなしの金をはたいて買った記憶がある。
何回かの引っ越しの時もこのレコードは処分しなかった。もはやこのレコードの傷までも私にとっては曲の一部である。
 学生時代の私は、当時流行りの難しい顔をして、薄暗いジャズ喫茶に入り浸っていた。時代は政治の季節であり、古いものをぶち壊す唐十郎・寺山修司・鈴木忠志・麿赤児などの前衛芝居が一世を風靡し、「健さん」の
やくざ映画が週末の映画館を人で埋め尽くした。ジャズ喫茶でのリクエストもジョン・コルトレーンやマイルス・デービスなど騒々しいジャズが多かったと思う。
 しかし疲れている時はやはりエバンスだ。
「おとーさん おとーさん 起きやあ 昼ご飯だよ」
 女房の声で眼が醒めた。
 夢を見ていたのかぁ。やはり自粛疲れだな……。



そぞろ歩きもちょっと休憩して今度はレコード鑑賞のようだ。だるまさんは多趣味の人なので色々暇つぶしはできるのだろう。
私は東京へ転勤になった時、浦安の社宅が狭くてオーディオやレコードもCDも、友人の子どもさんにプレゼントして引っ越した。子どもさんがちょうどそういう物に興味を持つ年齢であったから。
以来、音楽離れをしてしまったことは否めない。


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守山そぞろ歩き(3) [だるま広報]

5月3日、曇り。
夕食の筍料理用に、朝、畑へスナップエンドウの収穫に行く。突然の夏日のせいか急にタマネギの葉が倒れたり伸びて花をつけようとしていたので急遽収穫。

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タマネギは品種を変えているので大きさが不ぞろい。スナップエンドウ・絹さや・パセリを少々。


昨夜、アニマルさんとだるまさんからメールが来ていたのを確認。お二人ともコロナ対応で自粛中ゆえメールをくれるので、人間好きの私にとっては嬉しいかぎり。
だるまさんのそぞろ歩きが続いているようなのでアップ。私も知らなかった名古屋市守山区から春日井市方面の由緒ある寺院、特に侘び助さんとか緑地西口のGGさんに再確認していただけると嬉しい。


          守山そぞろ歩き⑶
            吉根橋から密蔵院

                      東谷山六兵衛

 志段味図書館を北に向かって、庄内川に架かる吉根橋を上ると眼下に宝珠をてっぺんにつけた古びた寺院の屋根が聳えている。橋の途中から降りる急な階段を手すりにつかまり及び腰で下る。ここは春日井市である。
 地元の人の話によると、昔はこの庄内川堤は川が氾濫する時、守山側に決壊させるのか春日井側にするのかで争いがあったそうである。春日井側の堤防は車も走れる道路になっており35センチ程高いということである。
 堤防に這いずって登り、東の方を見ると近くに高いネットを張った広い野球グランドがある。ここはご存知、愛工大名電高校野球グランドである。暖かい春の日に誘われてグランドに向かうが、コロナウイルスの影響で練習は中止という張り紙が貼ってある。裏には合宿所があり、玄関先には「適人適所の総力野球だ」と刻まれた走魂碑がどっしり建っていた。この合宿所にはイチローもソフトバンク工藤監督も山崎武司も住んでいたのだ。
 工藤監督なんぞは千種区の名電高校から足腰を鍛えるために毎日合宿所まで走って通った?という伝説もあるという。
 さて密蔵院だがこのグランドの西に建っている。吉根橋から見えた玉葱頭の屋根は重要文化財に指定されている多宝塔である。

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 総門の前に寺號「天台宗医王山藥師寺密蔵院」と刻まれた石柱が建っている。

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 嘉暦三年(一三二八)慈妙上人によって開山された。しかし元亀二年(一五七一)織田信長の比叡山延暦寺焼き討事件により全国の天台宗の寺は衰退の一途をたどった。延暦寺の末寺にあたるこの寺も例外ではない。天台宗の寺が復興を遂げたのは江戸時代になってからだそうである(春日井市教育委員会)。

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 古びた総門を潜ると観音堂があり、ご本尊の薬師如来立像が御座します。国指定重要文化財で秘蔵であるため、一般に公開されていないが全長九七センチ檜の寄木造、丸顔で目鼻立ちが小ぶりで均整がとれて美しく、手のひらに薬草を持っていると説明されている。当時の美人の代表的な姿であったのだろうか。
 その右手には元三太師堂がある。元三太師とはお神(み)籤(くじ)を世間に広めたお坊様だそうである。それなりの見識と商才を兼ね備えていたお坊様であったのだろう。その隣には青葉に隠れるように「灌頂(かんじょう)の井」がある。灌頂とは
阿闍梨より厳しい戒律のもとに修行し、正統な承継者としての儀式である(広辞苑)。かなりの荒行であったのだろう。
 近くに灌頂堂址があり、厳しい修行の後でこの井戸で水浴びしたのであろうか。
 そして境内の中央に高さ十六・五mの多宝塔が聳え立っている。この多宝塔は薬師如来立像と供に国の重要文化財に指定されており、室町時代に建立されたものだが、定期的に修理されているが昔の姿をとどめている。地元の人の話によると市内の宮大工と檀家衆が総出で作業する儀式にもなっているそうである。
 橋の上から見えた屋根のてっぺんの宝珠は火焔付き宝珠といい、めずらしい造りだそうである。一重塔に庇を付けた為に二重塔に見える。屋根の軒そりや勾配がやや急であり、近江の石山寺に似ている、と記してある。
 この寺は私の中学校の近くにあり、近所の悪友たちと境内でよく遊んだものである。
 そんな由緒ある寺だとは知らず、境内でキャッチボールをしたり、鐘付堂に腰かけて悪本を読んだりもしていた。その頃、作家で八尾の天台院住職でもあった今東光(法名春聴)が特任住職として、密蔵院に赴任している。
 今東光和尚なら鐘付堂で悪本を読むぐらいの事は「ワッ ハッハ」笑って許してくれるだろう。
懐かしく、楽しいそぞろ歩きであった。 


以前、何かで今東光が意外と近くの人だったのだ知ったことを思い出した。だるまさんの悪本はどんなものだったのか気になるところ。


さて、今日は筍料理の夕、「新鮮な筍のお刺身♪」「たけのこ香り椀」「たけのこチーズ焼き」「味付け簡単♪ たけのこご飯」の4種のレシピを揃えて挑戦。

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上のチーズ焼きは焦がしてしまい失敗、左の刺身は新鮮な甘さがあったのでOK、右の椀はやや味が薄かった。

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このご飯が大成功だったので満足。

いただい新鮮タケノコなのであれもこれも作ってみたのだが、やっぱり一食一品がいいのかな、と思ったのも事実。





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守山そぞろ歩き(2)大森篇 [だるま広報]

4月30日、最高気温26度の夏日であった。
バリアフリー外構工事の期間中、借りていた駐車場の雑草刈りが今日終わった。60坪の空き地の一部を駐車場として借りていたのだが、借り上げ条件が雑草刈りをするということであったので、これにて完全に工事が完了したことになる。地主さんに報告をしたら、ご丁寧に「お礼」としてお菓子をいただいた。草刈り費用は当然に負担しているのだが、直近でお借りできたお礼をしたいのは当方であって、気持ちのいい日であった。それくらい単独の草刈り作業依頼は難しいのだろうか。いただいたお菓子はFさんにも半分お渡しして、また遊びに来てくれるようにと、とりあえずのお別れとした。


カマツカが咲いた。毎年、花はつけてくれるのだが年々実が少なくなってきている。
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今年は肥料を多めに入れて、花にはホルモン剤を噴霧したので回復してくれるだろうと期待している。

昨日の小品イチョウの台座の焼き印。
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網走刑務所と押してある。
愛知県みよし市に名古屋刑務所があり、そこの矯正展で購入した台座。受刑者の改善更生を目的とした刑務作業での作品。素晴らし作品が出展されているので何年か連続してこのイベントの鑑賞をしていた。今年はコロナで中止になるかもしれない。


さて、だるまさんの2本目の文章を紹介したい。
だるまさんの昨日の法輪寺に関する佐藤嗣(継)信・忠信兄弟の件については、昨夜、眠ってしまわないように努力して『新・平家物語』の該当部「やしまの巻(続)」を再読して確認できた。
継信は身をもって義経の前に立ち、あるじの盾となって矢を受けた。「わっ、兄者人っ」と弟忠信。そこで義経が「忠信、かぶとの緒を解いてやれ。重かろう、わしが抱いてやる」と、心が揺さぶられるシーンであった。


     守山そぞろ歩き⑵大森篇
           大森寺から八剱神社へ

                    東谷山六兵衛

 法輪寺を出て北へ向かうと名鉄瀬戸線の踏切がある。「チン チン チン」ちょうど遮断機が下りた。見慣れた真っ赤な電車が通り過ぎていく。コロナウイルスの影響か車内の乗客は普段より少なく見える。踏切を渡ると線路脇に小さな観音様が建っている。昔、踏切事故で亡くなった子供を慰霊するのだそうだ。
 近所の方なのかお菓子と花が供えてある。
 前方に金城学院大学のチャペルが見える。
 其れかあらぬかこの辺りの町名を弁天が丘という。「コンニチハ」、すれ違う人は皆マスクをはめていて、表情を窺い知ることはできない。顔半分を隠しただけで人間がまるで無機質なロボットのように見える。
 大森寺山門の右手に「興旧山大森寺、尾張藩主瑞龍公御生母菩提所」と刻まれた石柱が建っている。瑞龍公とは二代藩主光友公の事である。御母堂乾の方については次のようなエピソードが語り継がれているという。
 初代藩主義直公が大森村に狩りに出た時、ご無礼にあたると盥で行水をしている老爺を盥ごと持ち上げて奥に運んだ娘がいた。義直公はその剛力にいたく感心し、この娘ならば立派な跡取りを生んでくれるだろう、と側室に迎えた。(正室は春姫であり子供がなかった)
 そして生まれた子が二代藩主光友公である。
 光友公は寛永十四年(一六三七)、生母乾の方(法号 歓喜院)の菩提を弔うために江戸小石川伝通院内に歓喜院という浄土宗の寺を創建した。寛文元年(一六六一)この地に移し、寺号を歓喜院大森寺と改めた(名古屋市教育委員会編)。
 本堂の裏手には歓喜院の宝筐院塔(供養塔)があり、苔蒸した台座には「歓喜院殿花株紅春大禪定(?)尼」と刻まれている。
 さらに奥に入った墓地には歓喜院の墓があると聞き、熊笹をかき分けて墓地に辿り着いた。人っ子一人いない墓地はあまり気持ちのいいものではない。木の枝を揺らす風の音にもビクリと振り向く。百体以上ある墓石の中から五段に詰まれ、歓喜院と刻まれている墓石をやっと見つけて手を合わせる。墓前には花が供えてある。墓の前に「御浄財」という箱が置いてあるのには思わず苦笑してしまう。
 大森寺を後にして西に少し歩くと八剱神社の大鳥居が見える。入口に立派な御影石に刻まれた「八剱神社由緒」を観ることができる。
 由緒には延暦十二年この地方の豪族山田の連(むらじ)によって創設された、と記されている。
当社には須佐之男命、日本武命、天之火命の三柱が祀られており、熱田神宮の別宮で宝剣をご神体とするところから八剱宮と呼ばれている。いずれにしてもこの八剱神社は古代より大森の人達が受け継いできた守護神であり、毎年十月十九日に大祭が行われている。
 大鳥居を潜って見上げると高い石段があり、登り切ったところに拝殿がある。息せき切って登るが石段は拝殿まで百㈣十㈡段あった。
 本殿の横には金ノ社、山神社、熊野社、神明社、白山社、さらにその横に秋葉社、天王社、多賀神社、御嶽社、大弁財功徳天社が鎮座まします、少し下ると天神社、撫で牛が可愛い眼をして横たわり、その横に天神様ゆかりの筆塚、西参道の降り口には棒の手記念碑まで建っている。この神社には八百万代の神様が御座しますようである。これだけの神様が同居していると人間社会と同じで争いごとが起きないだろうかと思うのは下種の勘繰りだろうか。歳旦には大森寺で除夜の鐘を突き、八剱神社で初詣という穏やかな新年を迎えられることを切に願うばかりである。

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だるまさんのそぞろ歩き、次は北へ上がって春日井市に入るらしい。
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名古屋市守山区大森 [だるま広報]

4月29日、今日も外出は畑の水やりと食品の買い出しのみ。

昨日の早朝、畑にいたとき家人さんからのスマホが鳴った。救急車が走っているので、もしかして私ではないかとの安否確認であった。私が見たのは消防車だったのだが。
今日、買い出しから戻った時、お隣さんからお知らせがあった。すぐ近くの若い奥様が突然死されたものだったようだ。4,5日前、ご夫婦とお子さん2人とフレンチブルドッグで散歩されているところを見かけて挨拶したばかりだった。ワンちゃんは以前写真を撮ってあげて、発行されたその本を差し上げたこともあった。余計なことかもしれないが、今後どうされるのかちょっと心配。


先日アップした小品イチョウの新芽、イチョウの葉形がしっかりしてきた。
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花台(白樺の木だったと思う)の焼き印、読めますかな?


昨日の就床前のこと、だるまさんからメールが届いているのに気づいた。1400字あまりの文が2本添付されていた。やっぱりコロナで外へ出られず、綴ったもののようだ。
名古屋市守山区大森あたりは、学生時代しょっちゅう通っていたので懐かしい。しかし、こんなにも由緒あるお寺があるとは全くも知らなかったし、若かったので興味もなかったのだろう。
あ、東谷六兵衛さんはだるまさんのペネーム、達磨さんやだるまさんとの使い分けは何なのだろうとふと思う。


   守山そぞろ歩き⑴ 大森篇
      『義経千本桜 狐忠信』ゆかりの法輪寺

                     東谷山六兵衛

 瀬戸街道の八剱交差点から少し北に入ったところに法輪寺の大屋根が見える。
 この辺りでは美味いと評判の「知多海」という料理屋の角を西に入ったところに山門があり、周りは民家が立ち並んでいる。比較的新しいつくりの山門の入口には「山門禁葷酒」と、刻まれた石柱が建てられている。酔っ払いと軍隊は立ち入るべからず、という意味なのだろうか。酔っ払いはともかく、葷も入るべからずとは、この寺の矜持が感じられる。
 そのすぐ右手奥に西国三十三か所由来の三十三の観音菩薩石像が鎮座まして、優しく微笑みかけて私を出迎えてくれている。
 山門前に掲げられている法輪寺由緒によるとこの寺の創建は貞観二年(八六〇)にまで遡るという。平安時代初期である。山門には「佛日山」という山号の額が掲げられている。
 山門をくぐると正面に本堂、右手には「ほうりん聖観世音」と書かれた高さ五メートル程の観音様が聳え立っている。
 私の関心のあった佐藤嗣信・忠信兄弟とその母堂の墓は山門を入って左側にあった。母を真ん中にして右手に嗣信、左手に忠信の小さな供養塔がひっそりと佇んでいる。
 佐藤嗣信・忠信兄弟とは源義経が頼朝の平家討伐の挙兵を知って、奥州平泉から馳せ参じた時、奥州の藤原秀衡が武蔵坊弁慶とともに義経に従わせた奥州きっての荒武者である。
 供養塔傍らの説明によれば義経の身代わりになって兄嗣信は屋島で、弟忠信は京都で戦死したと刻まれている。従者が二人の戦死を母に伝えるために奥州に向かう途中、正宗庵(法輪寺の旧名、当時はここより南の元郷にあった)という尼寺で病気療養中の母に偶然出会い、遺骨と遺髪を渡した。母は痛く悲しみこの正宗庵に懇ろに弔った。村人たちの悲しみも深く、次の年の正月に門松を立てるのを止めた。以後大森では正月に門松を立てない風習になったと語り伝えられている。
『義経千本桜』とは人形浄瑠璃、歌舞伎の演目の一つで義経の吉野への都落ちと実は生き延びていた平家の落人たちの悲劇を描いたストーリーである。この佐藤忠信は『義経千本桜 道行初音旅 吉野山』に義経に命ぜられ、静御前を守る役柄として登場する。
 しかし静御前を守る忠信、実は狐の化身である。静御前の持つ「初音の鼓」はこの子狐の両親の皮で作られたものであり、この子狐は愛おしい両親につれ添いたくて静御前を守っていたのである。次の段『河連法眼館』では本物の忠信から静御前の打つ鼓に合わせて狐(源九郎狐)に変身し、早変わり、欄干渡りなどこの歌舞伎で一番の見せ場となっている。この子狐の親子の情の深さにほだされた義経より忠信に成り代わっていたことを許され、初音の鼓を与えられる。その恩に報いて忠信とともに押し寄せる敵と大立ち回りを演じ義経の危機を救う、という幕切れである。
 義経は狐の世界でさえ肉親の情があるのに兄弟同士で殺し合う人間の世界に無常を感じていたのであろう。
 話は少しそれたが、歌舞伎の『義経千本桜』の華やかさとは似つかわしくないこの大森の地にひっそりと佐藤兄弟と母堂の菩提が弔われている寺を発見できたのはそぞろ歩きのおかげである。
 大森は古い寺社仏閣の多い街である。
 そぞろ歩きもまんざら悪いものではない。
 母親に寄り添うように建つ三つの供養塔に手を合わせた。「コン」というかすかな鳴き声を聞いたのは空耳だったのだろうか。
                     (縦書き原稿なので数字は漢数字になっています)

瀬戸街道とは、名古屋市東区から守山区、尾張旭市を経由して瀬戸物と将棋の藤井聡太さんで有名な瀬戸市を結ぶ通称で、県道61号線。
約45年前、吉川英治の『新平家物語』を1年かけて読んだのだが、もちろん義経は登場していた。佐藤嗣信・忠信兄弟については定かなか記憶がないので今夜就寝前に辿ってみよう。いずれにしてもこのような歴史上の人物に関してこんなにも身近な所にあったのかと、今頃に知った。
長く生きるということは、こういうこともあるのでもっと生きねばと思う一方、コロナが終息したらぜひ法輪寺で手を合わせようと思う。
やっぱり桜の季節がいいのかな。



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俳句 [だるま広報]

4月22日(火)、早朝2時間の畑作業で、昨日の酷い腰痛の原因が分かった。
金、土、月の3日間でトマトとキュウリの畝を立てて、支柱19本を建てたことによる筋肉痛であったことに気づく。腰だけでなく首、肩、腕、太ももなどにも痛みが出たので。
今朝はゆっくりと作業して、計19株(今日は7株)の定植を完了させた。

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昨日と今日とだるまさんからメールが届いた。先日の『すべって、ころんで、さあタンゴ!』の読後感想文を著者に送ったことと、さらにこのブログを著者に紹介したよ、という知らせであった。2000字以上もの感想文を、的確によく書いたものだと感心。
メールには、同人誌『山波』にも毎号掲載されていて、だるまさんが関わっている「らくだ句会」の選句結果のファイル添付もあった。
先日、だるまさんがコロナで「149回 メール句会」となってしまった投句61句を教えてくれたので、気まぐれに私も5句を選んでメールしておいたからだろう。
私が選んだ5句で複数の選者がいたのは、次の一句(2点)だけであったので、私は選者としても凡人以下なのかなぁ、いい句だと正直に選んだのだが(>_<)
うららかや母の手の味塩むすび  浄爺 さんだった。

なごやかな春日の暖かさと母の優しい心をおむすびに一緒に包んだ、シンプルな詠みで nicer! と思ったのだが。

浄爺さんには、5点句もあった。
球音の消えたグランド犬ふぐり

今回の兼題が何か知らなかったのだが、概ね春なのだろうとは想像して選句していた。犬ふぐりを引っ張ってきたのは、なかなかだと思っていたのだが、私としてはコロナは俳句として選びたくない心境だった。

だるまさんには3点句があったようだ。
ひこばえや親子二代の臍まがり  達磨 

もしかして、これは自分のことを詠んだのかな(。´・ω・)?


午後、小品のカエデの葉を撮る。
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歳時記で「カエデ」と引いてみたら、「楓の芽」と「楓の花」しかなかった。もちろん春の季語なんだが、カエデのは「紅葉」として秋の季語にしかならないのだろうか。
春には「出猩々」とか美しい葉があるのだが・・・。


今日も自粛で、菜園と購入品メモを携えてのスーパー(夕食分)だけの外出。


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