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文七元結(ぶんしちもっとい) [だるま広報]

6月7日、競馬趣味はなくても今日はLIVEで見なくては、と見たらアーモンドアイの記録はならなかった。

だるまさんから、古今亭志ん朝の「文七元結」のCDが届いていたので聴いたところ、野風さんが出てきそうな気配がしたので静聴した。以前、だるまさんが同人誌「山波」に書いていたことを思い出し、原稿を送ってくれるように依頼したら、わざわざ加筆修正したうえ、自粛が解かれた陶芸教室で作陶中のだるまさんの顔写真がひっ付いてきた。
「アップしてよいか」と訊いたら、「どうせマスクと禿げ頭だから、モザイクはかけなくていい」とメールにあったので、遠慮なく。
休憩も必要だろうと、真ん中あたりに挿入することにした。



     文 七 元 結
       遅咲き名人十一代 金原亭馬生

                      東谷山六兵衛

「お見逸(みそ)れしやした。馬生師匠!」
思わず叫びたくなった。
十一代目金原亭馬生『文七元結』を、リニューアルした大須演芸場の師走定席寄席で聴いた。
この噺は三遊亭圓朝作の江戸人情噺である。
多くの噺家がこの噺を語るが、この噺を語るには噺家としての品格と年輪を重ねる必要があるだろう。
先代金原亭馬生のファンであった私はこの大名跡を襲名した当代馬生の噺を楽しみにしていた。
大須演芸場での『文七元結』といえば、古今亭志ん朝の伝説となっている高座がある。私もCDで聴いたが、この噺の最後の場面で立見席もでる満員の客席のあちこちから、啜り泣きが聞えたという。観客の心を噺の中に引きずり込んでしまった志ん朝という噺家の力量にはあらためて凄みを感ぜざるを得ない。

この噺の主人公、左官の長兵衛は本所だるま横丁の貧乏長屋に女房とお久という十七歳になる一人娘と住んでいる。いい腕を持ちながら、博奕三昧、家財道具や着物まで売り払い、年も越せない有り様である。
ある夜博奕に負けてスッカラカン、着物までも博奕の形に取られて法被一枚で帰ってくる。
「お前さん、また負けたんだろ。どうするんだい。年を越せないじゃあないか・・・。それより大変だよ。お久がいないんだよ。長屋の連中も皆で探したんだが見つからないんだよ。お前さんの博奕狂いで家の中は真っ暗だよ。それで家出したんだよ。お久は。大川にでも身投げしたら、私やこの家を出ていくよ。・・・」
今夜もお決まりの派手な夫婦喧嘩の真っ最中。
そこへ「御免下さいまし」と吉原の遊郭 佐野槌の使いの者が来る。佐野槌は吉原でも名うての大店(おおだな)である。
「お取込み中すみません。お久さんがうちに来ています。ついてはすぐに長兵衛さんにうちに来るように、と女将さんから言付かって参りました」
「そうか、お久は佐野槌にいるのか、しかしなぜ佐野槌になんか……」お久が生きているとわかりホッとした長兵衛は、女房の着物を奪うように羽織って、這う這うの体で佐野槌に駆けつける。佐野槌に上がり込むと、女将の横でお久は、めそめそ泣いている。
「どこへ行ってたんだ、この馬鹿野郎! おっ母も心配しているぞ。すぐ帰るんだ」
お久を叱りつけ、無理やり連れて帰ろうとする長兵衛に、女将は「そんなことをいうと罰が当たるよ。この娘はねえ、自分から身を売って、お前の借金を返そうとしたんだ。今時こんな事をいう娘はいないよ。こんないい娘を持ちながら、博奕をやめられないんじゃ駄目じゃあないか。借金はいくらあるんだい」
「へい、五十両ほど」
「五十両貸そう。そして一年後の大晦日迄に返しておくれ。それまではこの娘を預かって女一通りの事は身につけさせよう。その代り期限が一日でも過ぎたら、私は鬼になるよ。女郎として店に出すよ・・・」
「ありがとうごぜえます。お久待ってろよ。皆さんに可愛がられるんだぞ。お父つぁんは博奕をやめる。きっと迎えにくるからな」
女将にきつく諭された長兵衛、その五十両を押し頂いて帰る途中の吾妻橋で、身投げをしようとしている若い男に出会す。
「おい、ちょっと待て。早まるんじゃあねえ」
わけを聞いてみると、水戸様の処で集金した五十両を掏(す)られたという。このままではお店(おたな)に帰れないので死ぬといって聞かない。
思い余った長兵衛はこの若い男に「死ぬな。死んだらお終いだ.。早まるんじゃあねえ」と、いい聞かせて、身投げを思いとどまらせる。
「この五十両は、17歳になるお久っていう一人娘が身を売ってこしらえた金だ。佐野槌の女将が情け深い人で、1年待ってやるがそのかわりその五十両を来年の大晦日迄に返さないと娘は女郎になる。この五十両をお前にやると、都合百両。とても返せねえ。せめて神様に娘が悪い病に罹らねえように、かたわにならねえように、毎日拝んでくれ。そのかわり死ぬな。娘は女郎になるだけだが死んじゃあおしめえだ。」
その五十両を叩きつけるように若い男に渡して長兵衛は立ち去る。
この噺のクライマックスである。
長兵衛のような男の事を評論家矢野誠一は「破滅型善人」という。医学的には循環気質と呼ばれ、躁うつ病とは隣り合わせだという説もあるそうである。
娘と女房に対する申し訳のなさと、死ぬという若い男を助けねばならないという侠(おとこ)っ気が絡み合う江戸っ子気質の長兵衛の胸の内を、馬生は抑えた口調で淡々と語る。余談ながらこの場面での五十両は咄嗟に出して、叩きつけるように渡せと師匠から教わったという。その思い切りが噺の切れというものだそうである。
五十両を受け取った若い男は、日本橋にあるべっ甲問屋近江屋卯兵衛の店の文七という手代である。
夜遅くに店に戻った文七は、すでに五十両が水戸屋敷から届けられていることを知る。掏られたというのは勘違いで、碁に夢中になった文七が碁盤の下に忘れてきたのだ。
「取り返しのつかない事をしてしまった。お久さんが女郎になる」慌てた文七、主人卯兵衛にこの五十両を貰ったいきさつを半泣きになって話す。
話を聞いた卯兵衛は「一人娘を売った大事な五十両を、見ず知らずの者に与えるような男がこの世にいたのか」と感心するやら、あきれるやら。
翌朝、卯兵衛は文七を連れて夫婦喧嘩真っ最中のだるま長屋を訪れ、五十両を返し、「あなた様のような人間は、我々商人仲間にはいない。是非、親戚付き合いを」と文七の後見人になることを長兵衛に頼む。
そしてお礼にと角樽二升と酒の肴を届けさせる。
「ありがてえ、酒は戴くが肴はいらねえ」
「まあそういわずに」と送られた肴を見てびっくり。


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やっぱりアップするものの良識としてモザイクをかけた。メールに付いていた説明は、「土は3月に仕入れた信楽の土です。3カ月たっていたので固すぎるかと思いましたが何とか使えました。見た通り黒っぽい土ですが焼くと白くなります。」
だるまさんは、そぞろ歩きから陶芸に転じたようだが、「そぞろ歩き」の続篇も待っている。

送られた肴は駕篭に乗って、きれいに着飾ったお久であった。
卯兵衛がお久を見受けし、酒の肴として長兵衛夫婦の元に返したのである。
お久はまず、真っ先におっ母さんを探し出し、抱き合って喜ぶ。そして大団円。
この場面が件の大須演芸場啜り泣きの場である。
後に文七は、お久と夫婦になって麹町貝坂に元結屋を開き、たいそう繁盛したという。
この人情噺を、名人と言われる噺家たちが皆、自分の噺として味付けし、語り繋いできた。
何回聞いても泣ける噺である。先代に似て当代馬生も粋な江戸前の噺家であるが終わった後、座席で余韻に浸っていたくなった。「お見逸(みそ)れしやした。馬生師匠!」である。
この噺、登場人物が皆、真っ正直であり、粋である。
博奕好きの破滅的人間として登場する長兵衛は、娘が身売りして作った金を、大川に身投げしようとした見ず知らずの男に与え、娘のお久は博奕狂いの父親の借金を返すために身売りまでしようとする。
そして、どういうわけか名前が出てこない長兵衛の女房は、なさぬ仲の先妻の娘のお久を、実の娘以上に可愛がる。お久もまた実の母親のように慕っている。
佐野槌の女将も近江屋卯兵衛も、世間を知り尽くした人間の矜持と粋がある。佐野槌の女将のポンと五十両出す場面で、期限までは女一通りのことは身に着けさせるが一日でも期限を破ったら鬼になって客を取らせるという台詞は、遊郭の女将ならではの凄みがある。今でいうギャンブル依存症の長兵衛さんもその迫力に圧倒されたのだろう。
この噺を十一代金原亭馬生で聴くのは初めてである。
十代目馬生が偉大だったため、この金看板を継ぐのを一門の先輩、金原亭伯楽や五街道雲助は敬遠したという。
結局、当時の金原亭馬治にお鉢が回ってきた。
平成11年、先代馬生の十七回忌に志ん朝の肝入りで十一代金原亭馬生を襲名する。
芸事の世界で金看板を引き継ぐ者は先代と比べられ、先代との戦いであるとはよく言われる言葉である。
馬生は昭和22年東京銀座生まれの商家の若旦那であり、生粋の江戸っ子である。
馬生は、同世代の今を時めく、志の輔、市馬、権太楼、さん喬、五街道雲助らと比べると地味である。
「この落語家に注目」風の本にもあまり、取り上げられない。すぐ下の世代には、市馬、喬太郎、菊之丞、白酒などが控えている。
この若旦那は見習い時代に、先代から一度クビになっているという。寄席の数が減り、演じる場所も少なくなり、前座があふれていた時代である。
3年後、兄弟子五街道雲助の口利きで復帰するも、師匠の先代馬生が早すぎる死を迎える。
その後、先代の一番弟子金原亭伯楽の弟子になり、前座、二つ目と昇進するが、今ほどホール落語もない時代であまり声が掛からず、修行の場も少なかったという。
馬生一門のおおらかな弟子の育て方のせいか、銀座木挽町の若旦那のせいか「俺が、俺が」という無粋な生き方ができなかったのであろう。
波乱万丈、苦労人でもある。 
余談ながら昭和22年丁亥(ひのとい)生まれの私と同い年である。もっと上かと思っていたが……。
本日演じた左官屋長兵衛も、他の噺家に比べおっとりしている。これでは博奕に負けても致し方ないか・・・。
先代馬生も話に品格があった。
馬生は長年、高座舞(註一)でかっぽれを踊り、鹿芝居(註二)で二枚目切られ与三郎を演じ、芸域を広げているという。
10年前から取り組んでいるという圓朝噺(註三)も円熟した話芸で、是非聴いてみたいものである。
噺家としては整った顔立ちの、今の馬生の江戸の匂いのする落語は、先代の足元にやっと及んだのであろう。
「世の中スイスイ お茶づけサラサラ。何でもいいんだよ 何でも。世の中もっと面白いものなんだ。でもどうでもいいんじゃあないんだよ。」
先代馬生の口癖であったそうだ。
噺家は60代から円熟期を迎えるという。
遅咲きの十月桜にも似た、十一代目金原亭馬生の渋い芸に出会える日を楽しみにしている。。


参考文献 
『落語家の値打ち 十一代金原亭馬生 』うなぎ書房
『落語を歩く 鑑賞三十一話』矢野誠一 河出文庫
『落語への招待二・三 別冊歴史読本 新人物往来社

註一 高座踊り 定席寄席でトリの落語の後の余興の踊りの事。落語家は踊り、都都逸、義太夫、歌舞伎などに通じており、それらの芸事が噺の肥しになっている。古今亭志ん朝の「住吉踊り」が有名である。

註二 鹿芝居 噺家(ハナシカ)からハナを取って漢字で鹿(シカ)とした。噺家で演じる芝居。歌舞伎や落語の演目を演ずる。歌舞伎の「与話情浮名横櫛 源冶店」(お富与三郎)などを題材にした鹿芝居が国立演芸場、上野鈴本演芸場で演じられている。 
 
註三 圓朝噺 江戸末期から明治の落語家三遊亭圓朝が作ったといわれる人情噺や怪談噺である。
人情噺に「文七元結」「黄金餅」「塩原多助一代記」
怪談話に「牡丹灯籠」「真景累ケ淵」などがある。正岡子規も圓朝を聴きによく寄席に来たという。


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お後がよろしいようで。


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